1856年選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 18:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「1856年選挙」の解説
詳細は「1856年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照 ピアース大統領は「血を流すカンザス」との関わりが強く、1856年の選挙では民主党の指名を得られなかった。民主党は代わりにジェームズ・ブキャナンを候補者に指名した。民主党は南部で盛んな選挙運動を行った。共和党のことは過激派であり内乱を誘導するものだと警告した。 ノウ・ナッシング党は元大統領のミラード・フィルモアを指名し、主に移民に関する綱領で選挙運動を行った。 共和党はジョン・C・フレモントを指名し、「自由土地、自由労働者、自由言論、自由人、フレモント」をスローガンにした。フレモントは北部の大半を制し、もう少しで当選するところだった。ペンシルベニア州とイリノイ州の票をもう少し積み上げておけば、共和党の勝利だった。民主党は勝利したが、次第に南部の党になっていった。こうして共和党が北部を、民主党が南部を代表する形で、アメリカは南北に二極化した。これは第三政党制と呼ばれ1896年まで続いた。 ブキャナンの就任直後に、1857年恐慌と呼ばれる突然の不況に襲われ、民主党に対する信頼感をさらに弱めた。この年春、ブキャナン大統領はユタ準州に軍隊を派遣し、1857年まで続くユタ戦争となった(ブキャナンの失態とも呼ばれた)。
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