鼓阪小学校の誕生
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「奈良市立鼓阪小学校」の記事における「鼓阪小学校の誕生」の解説
北御門小学校の校舎である五劫院の老朽化・狭さを憂いた奈良県第1大区第1小区の有志は新学校を求める活動を行った。活動が実を結び、1878年7月5日、東大寺惣持院の建物・建具・庭石などの一切を東大寺から譲受する契約書が交わされた。契約成立後、北御門小学校は直ちに移転を開始し、東大寺惣持院が所在する雑司町字鼓阪という地名から校名を鼓阪小学校と改称する。 同じ1878年、笹鉾町会所に設置されていた裁縫学校を鼓阪小学校に移し、裁縫科が設けられた。このとき裁縫科の教壇に立った立花孝子は奈良県初の女性教師であるとされる。 1882年ごろの学校の様子を申告した資料を見ると、校区内の人口は4843人で、そのうち学齢児童が827人(男: 411、女: 416)存在した。そのときの鼓阪小学校の生徒数は495人(男: 269、女: 226)となっており、就学率は約60%であった。校地は2反8歩(約2000m2)で建物が6棟存在した。一年間の学校経費は 1169円80銭、このうち403円83銭は校区内の各戸、1戸平均約2円3銭の拠出金で賄われていた。職員は教員2名、補助員8名、助手1名ですべて男性であった。 1883年には分校の東之坂小学校が本校に統合された。
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