黄金の消失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:33 UTC 版)
紀元前2世紀後半、キンブリ族、テウトネス族、ボイイ族、ティグリニ族、アンブロネス族といったゲルマン人・ケルト人の大集団がヨーロッパを転々としていた。紀元前107年、ティグリニ族が現在のボルドー付近で行われたブルディガラの戦いで、執政官ルキウス・カッシウス・ロンギヌス率いるローマ軍を破った。これを受けて、ウォルカエ・テクトサゲス族などのローマに服属していたガリア人たちが反乱を起こした。これを平定するべく、紀元前106年にクィントゥス・セルウィリウス・カエピオが軍勢を率いてガリア・ナルボネンシスに向かった。 トロサを制圧したカエピオは、秘匿されていた莫大な財宝を発見したという報告をローマに送った。ストラボンがポセイドニオスの著作から引用した記述によれば、その財宝とは1万5000タレントもの金銀の延棒であった。これに対して、ユスティヌスやオロシウスは、10万ポンドの金と11万ポンドの銀であったと述べている。 財宝をローマへ送るよう命令されたにもかかわらず、カエピオが送ってきた財宝の中には金が無かった。オロシウスによると、カエピオはローマの同盟者マッシリアの護衛をつけて財宝を送ったのだが、その護衛が殺されて金が奪われ、二度と見つからなかったのだという。カエピオは、彼こそが黄金を奪って隠した張本人ではないかと疑われた。 この醜聞を上塗りするように、カエピオは紀元前104年にアラウシオの戦いで決定的な失態を犯した。この戦いは、ローマ史上カンナエの戦いに並ぶ惨敗となった。プロコンスルであったカエピオは、平民出身ながら執政官に上り詰め、彼の上官となったグエナウス・マリウス・マクシムスと協力するのを嫌がり、戦功を立てようと焦ってキンブリ族との戦端を開いてしまったのである。最終的に少なくとも7万人のローマ軍団兵が、非戦闘員も含めた全体では12万人が戦死した。 カエピオは辛うじて逃れたが、プロコンスルとしての軍団指揮権(インペリウム)や元老院議員の資格までも剥奪された。さらに軍団を失った責任を取らされローマ市民権も剥奪され、1万5000タレントを罰金として奪われ、ローマの周囲800マイル圏から追放された。まもなくカエピオはスミュルナで没した。
※この「黄金の消失」の解説は、「トロサの黄金」の解説の一部です。
「黄金の消失」を含む「トロサの黄金」の記事については、「トロサの黄金」の概要を参照ください。
- 黄金の消失のページへのリンク