魏冄の罷免・登用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)
紀元前287年、宰相を罷免されていた魏冄を再度宰相に任じた。 紀元前286年、司馬錯に命じて、魏の河内を攻めた。魏は安邑を秦に献じたが、その際に、河東の地に移りたい安邑の民を募集した。移った者には褒美として爵位を賜い、また罪人をも赦した。 紀元前285年、蒙武を登用し、斉を討たせた。また、蜀侯であった綰が謀反した疑惑が持ち上がりこれを誅殺した。以降は蜀には侯は置かず、蜀郡郡守を置くのみとした。 同年、昭襄王は都尉の斯離に命じ、三晋(韓・魏・趙)および燕と共に斉を討ち、済水の西で斉を破った(済西の戦い)。この際に、魏王と宜陽で、韓王と新城で会見した。 紀元前283年、魏を攻めて魏の安城を取り、大梁に赴いたが、燕と趙が魏を援けたので、秦軍は兵を引き上げた。また、同年再度魏冄の宰相職を免じた。 紀元前282年、昭襄王は趙の2城を陥れた。この際に、魏王と新明邑で、韓王と新城で会見した。 紀元前281年、宰相を罷免されていた魏冄を再度、宰相に任じた。この年恩赦を行い、罪人を赦したが、移した先は穣だった。穣は魏冄の封じられている地であり、魏冄の力はますます強まった。 紀元前280年、司馬錯に命じ、隴西から兵を出して蜀に出て、楚を討った(黔中の戦い(中国語版))。また、罪人を赦して南陽に移した。同年、白起に命じ、趙を討ち、代と光狼城を取った。 昭襄王の在位中に魏冄は何度も宰相を罷免されているが、宰相に返り咲いており、権勢を誇った。 同年、昭襄王は趙の恵文王の「和氏の璧」を手に入れようとして藺相如に防がれた(完璧)。その後昭襄王は趙を討ち、恵文王と会見した。完璧の件を根に持っていた昭襄王は、会見の席で恵文王を辱めようとしたが、またもや藺相如によって防がれた。 藺相如の存命中に秦は趙に対して大きな行動を取ることができなかった。
※この「魏冄の罷免・登用」の解説は、「昭襄王」の解説の一部です。
「魏冄の罷免・登用」を含む「昭襄王」の記事については、「昭襄王」の概要を参照ください。
- 魏冄の罷免登用のページへのリンク