高知競馬時代
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主戦騎手だった中越豊光は、跨った瞬間「中央の一流馬は物が違う」と思ったが、だが脚元を見て「こりゃダメだ」と思ったとも。しかしこんな事は地方競馬では日常茶飯事。調教師の松下は根気よく桂浜を歩かせるなど屈腱炎治療に専念した。 移籍初戦は翌年の1月、初戦を2着とすると脚部不安の休養を経て10ヶ月後に出走も再び2着。そして屈腱炎を再発しさらに1年間の休養。 翌1998年の10月に復帰すると翌1月のA級戦で3年ぶりの勝利を飾った。復帰直前にはかつて共に走ったナリタブライアンが死亡していたうえ、ナムラコクオーもすでに7歳(旧8歳)になっており同期の馬はほとんど引退していた中での勝利であった。しかし脚部不安は直らず特別戦2着の後休養へ。 8月に復帰したときはC級に落ち、さすがにここでは実力が違い5連勝、そして6連勝目で高知の重賞黒潮スプリンターズカップを制し高知競馬場のトップホースの1頭に上り詰めていた。だが高知県知事賞で競走中止になり1年後に復帰したA級戦でもまたもや競走中止となり屈腱炎を発症。 2年後に奇跡的に復帰するも、すでにナムラコクオーは11歳。だがクラスが最下級のE級まで落ちていたこともあり一気に7連勝を飾ると2003年の3月には統一重賞黒船賞に出走し4番人気に支持され、GI優勝馬ノボジャックやノボトゥルーと10馬身余りの差で9着に入っている。その後C,B級を7連勝、だが脚部に不安を抱え2003年9月27日のAB混合戦を最後に、2005年12月6日、およそ12年間にも渡る競走生活に終止符を打った。
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