高瀬真卿による記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:41 UTC 版)
高瀬真卿は『水戸史談』で水戸の藩医だった庄司(荘司)健斎から聞いた話として、政宗が秀吉から下賜された光忠が燭台切であり、頼房が欲しがって三代将軍・徳川家光に相談したところ「それはいとやすい事、政宗に左様申てやろう」と言われ、政宗は登城後なんと言われたのか早速光忠の刀を持ってきて頼房に進上した、という逸話を記載している。 後に高瀬が記した刀剣書では庄司から聞いた話が脚色されており、東京日日新聞の連載をまとめて出版した『刀剣談』では燭台切光忠が水戸徳川家に渡った一説として家光が「政宗の光忠は珍しいものであるので所望せよ」と徳川頼房を焚きつけ、頼房が「光忠を吾等に嫁入らせ候へ」と戯れに言うと政宗は大笑いして「秘蔵の子なれど、上様の媒人ではいやとも言れまじ」とそのまま進上した、という話になった。 また高瀬が羽皐隠史の筆名でやはり新聞連載をまとめて出版した『英雄と佩刀』では、伊達政宗が豊臣秀吉に御座船を献上し大いに喜んだ秀吉から引き出物を賜った後、雑談の末に光忠を見せられたのをそのまま持ち逃げした。その後徳川頼房が燭台切のことを聞いて政宗に一目見せてもらったが「太閤より拝領の品で御座るから、誰人の御所望にても差上げる事は相成らぬ秘蔵第一の品で御座る」と釘をさされたので第3代将軍・徳川家光に相談すると「余が媒介をいたしその光忠を聟(むこ)に貰ひ候へ」と言われた。そんな中、蒲生秀行 (侍従)と頼房のいさかいが起こりそれをきっかけに頼房と政宗が懇ろになった。そこで頼房が光忠を所望すると上様のお声がかりということで断れずとうとう進上した、という話になっている。
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