駒場農学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
恒藤は更に勉強を続けたいと願って上京した。しかし貧乏で国許の両親からの送金も期待できない以上、官費生として勉強を続ける他なかった。そこで官費生の募集を探していたところ、駒場農学校で募集が出された。恒藤は受験したいと願ったものの、試験が難しいとの話を聞いたため大変に不安であった。どうしようかと悩みながら両国橋のたもとをうろうろしていると、占い師が恒藤のことを呼び止めた。占い師は恒藤に「君の望みは大丈夫、叶うから、試験でも何でもやってみるが良い」。と言ったため、発奮した恒藤は受験を決意し、無事合格した。 1878年3月、恒藤は駒場農学校農学科に入学する。同級生には日本の農学を支えていくことになる横井時敬、酒匂常明らがいた。駒場農学校の学生は官費生であったため衣食は保証され、恒藤は経済的には安心して勉学に励むことが出来た。駒場農学校では化学を教えたキンチ(Edward Kinch)ら、主にイギリスからのお雇い外国人が英語で授業を行った。授業内容も農芸化学など化学関連のものも多く、これまで漢学や英語を学び、特に理系の勉強をして来なかった恒藤にとって苦労も多かったと考えられる。 1880年6月8日、恒藤は駒場農学校農学科甲等17名の一人として卒業する。なお、恒藤の卒業試験の成績は17名中13位だった。
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