養和堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:43 UTC 版)
養和堂は王妃の生活空間として1484年(成宗15年)に建てられた。文禄・慶長の役と李适の乱、丙子の乱によって焼失、そのたびに再建し、1830年(純祖30年)再び焼失したのを1843年に再建、今日に至る。丙子の役が起きた際、仁祖は南漢山城で身を避けたのち翌年帰って来てここに住むこともあり、1878年(高宗15年)哲宗の王妃・哲仁王后がここで崩御した。懸板は純祖の字である。養和堂は正面6間、側面4間規模の平屋で、四隅に軒をめぐらした八作屋根を載せ、軒を支える栱包は3枚の羽模様の翼工様式である。 1911年11月30日、養和堂後方の丘に李王職博物館(帝室博物館)が新築・移転され、昌慶苑の開苑と同時に一般に公開した。この建物は京都の平等院を真似て設計されたもので、地上2階、地下1階の煉瓦建築だった。1938年に李王職博物館が徳寿宮へ移転すると、明政殿付近にあった蔵書閣の図書をここに移し、旧・博物館の建物を蔵書閣に変えた。1981年7月、保管図書が韓国精神文化研究院へ移管された後、1992年に建物まで撤去しながら現在は空き地だけが残っている。
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