飛騨国内紛に武田・上杉が介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
「川中島の戦い」の記事における「飛騨国内紛に武田・上杉が介入」の解説
飛騨国では国衆同志の争いが武田氏・上杉氏の対立と相関し、飛騨国衆の三木良頼・三木自綱親子と江馬(江間)輝盛は、江馬時盛と敵対していた。永禄7年(1564年)には信玄が江馬時盛を、輝虎が三木氏・江馬輝盛を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となる。同年8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。 以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、上杉輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
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