風信帖と久隔帖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:27 UTC 版)
弘仁2年(811年)7月中旬、最澄は比叡山の経蔵を整理しているが、これを補充する意図もあって、これ以降、空海からの密典借用が頻繁に行われるようになる。40通に及ぶ「最澄消息」の大半は空海から密典を借用するための願い出、もしくは依頼の書状である。『忽恵帖』(3通目)は、この年(推定)9月5日付の空海の返書だが、その内容から最澄が『仁王経』などの借用を願い出ていることがわかる。 翌弘仁3年(812年、推定)、最澄は空海に『摩訶止観』を贈り、また比叡山に登るように誘った書状を送ったようである。この返書が『風信帖』(1通目)で、『摩訶止観』の恵贈されたことに対する鄭重な返礼であり、比叡山には都合が悪くてお伺い出来ないという内容になっている。 弘仁4年(813年)秋、空海は40歳の中寿を迎えたとき作った『中寿感興詩』を最澄などの知友に贈った。そこで最澄は、同年11月25日、その返礼として和韻の詩を作る旨の書状を送っているが、これが『久隔帖』である。
※この「風信帖と久隔帖」の解説は、「風信帖」の解説の一部です。
「風信帖と久隔帖」を含む「風信帖」の記事については、「風信帖」の概要を参照ください。
- 風信帖と久隔帖のページへのリンク