項羽の都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 03:48 UTC 版)
戦国時代中期には宋や楚などにより彭城は争奪された。秦朝が成立すると彭城県が設置されている。秦末になると過酷な政治に対する民衆反乱が発生、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地となった。前209年、下相(現在の宿遷市)の住民項羽、項梁をはじめ、沛(現在の徐州市沛県)の住民劉邦らは彭城の近くの大沢郷(現在の宿州市)で起こった陳勝・呉広の乱に呼応し秦に反旗を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚覇王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸侯を各地に封じた。前206年、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指し進軍。一年後、不満を持つ諸侯をまとめ60万の大連合軍を結成し項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援のために引き返し、彭城の戦いにおいて3万の精鋭で60万の漢の連合軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例のない大勝利を収めた。 その戦いで劉邦は追い詰められたが、配下の韓信らの後方撹乱などで窮地を脱し再び楚に進撃、韓信が諸侯を一掃させ結束を高めた。前202年、漢軍は下邳(現在の邳州市)を占領し、彭城を守る将軍・項佗は投降した。項羽軍はこの後に垓下の戦いで四面楚歌を受けてほとんどの兵士が逃亡、ほぼ壊滅し、項羽は烏江で自害し楚漢戦争は劉邦が勝利した。
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