革マル派の声明とそれへの糾弾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:01 UTC 版)
「川口大三郎事件」の記事における「革マル派の声明とそれへの糾弾」の解説
川口大三郎の遺体が翌日発見された後、革マル派は川口大三郎の殺害を正当化する犯行声明を発表した。この革マル派の声明に多くの学生たちは反発、怒り、批判の声を上げた。そして、早稲田大学では全学的な革マル派および革マル派と癒着する早稲田大学当局へ批判が強まり、革マル派は追いつめられることになった。革マル派全学連委員長の馬場素明は、責任をとって全学連委員長を辞任し、「徹底的に自己批判し、深く反省する」という声明を出した。 しかし、学生たちの怒りは収まらず、数百人から数千人規模の革マル派糾弾・抗議集会が連日続き、1972年(昭和47年)11月28日、第一文学部学生大会を皮切りに理工学部を除く各学部で学生大会が行われ、革マル派自治会執行部がリコールされ、自治会再建をめざす臨時執行部が選出された。また、一文、教育、政経、社会科学の各学部でも、正式執行部が選出された。左翼内ゲバ犠牲者は多いが、このように多くの学生が虐殺事件の糾弾に広く立ち上がったのは、「川口大三郎事件」が唯一である。
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