青木神叔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:49 UTC 版)
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青木 神叔(あおき しんしゅく、生没年不詳)は、江戸時代前期の俳人[1]、俳諧師[2]。
経歴・人物
元禄年間頃の江戸の神道家で[3]、北村季吟に学んだ[1]。のちに服部嵐雪の門下に移ったとも考えられている[2]。江戸の石町(後の日本橋本石町)に居住[4]。その隣家は服部嵐雪宅であった[5]。
嵐雪が編纂した俳諧集『或時集』には跋文を寄せる[2]。『或時集』は、松尾芭蕉の説いた「軽み」を杉山杉風ら深川連衆が実践した『別座鋪』に対抗し、『別座鋪』を批判した嵐雪が編集を企図した『露払』の改題と見られる選集で、神叔による跋文も、『別座鋪』の序や巻末に対する皮肉を含んだものと見られている[6]
元禄11年(1698年)に刊行された『歳旦牒』には、神叔らによる三つ物が収録されている[2]。
嵐雪が没した宝永4年(1707年)に刊行された嵐雪の高弟高野百里による師の追善集『風の上』には、神叔による「嵐雪伝」が載せられている[5]。嵐雪の出生地には、淡路とする説、江戸の湯島とする説があるが、神叔の「嵐雪伝」は、嵐雪が江戸の湯島の生まれで、湯島天神の氏子であった旨を明記し、江戸湯島説の典拠となっている[7]。この「嵐雪伝」については、潁原退蔵による、「かなり詳しく、かつ最も確実性に富む」との評価がある[8]。
代表句に《我顔やしぐれてのぼる井戸の中》[4]。
天野桃隣が元禄10年(1697年)に出した『陸奥衛』には、神叔の肖像画が載せられている[2]。
参考文献
- 「俳文学大辞典」 尾形仂著、大岡信、島津忠夫、森川昭、草間時彦編、角川書店、1996年、ISBN 4-04-022700-X
- 「俳句人名辞典」 常石英明編著、金園社、1997年、ISBN 4-321-32701-6
脚注
- 青木神叔のページへのリンク