関西排球協会の設立
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1925年5月「関東排球協会」の設立に続いて同年11月、多田の肝いりで、神戸高商の教え子、西川政一、渡辺逸郎、若林昌之助、山中一郎らと「関西排球協会」を設立、会長・代表理事としてその運営に尽力した。関西協会は組織的に強固で、同月ただちに第1回関西男子選手権大会を開催、翌1926年、関西女子選手権を開催し活発な動きを示した。 1926年から、全国中等排球選手権大会を神戸高商で主催。出場した選手が後年、各地の指導者に成長したのを始め、名古屋の八高や地方の専門学校なども中学大会をもつようになった。中学校のレベルは一躍向上してこの中から坂上光男や長崎重芳など、のちの全日本選手が数多く生まれた、また自ら講師としても朝日新聞社主催の運動講習会に各県をあるき、バレーボールを国内に伝える大きな役割を果した。日本女子初の国際試合である第6回極東選手権(1923年)に出場した姫路高女は多田が指導した。こうした多田の指導は、この頃12人制になっていたバレーボールの競技スポーツとしての活性化に貢献し、1925年に9人制が始まる契機ともなった。
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