長福寺 (多治見市)
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| 長福寺 | |
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| 所在地 | 岐阜県多治見市弁天町1-16 |
| 位置 | 北緯35度20分20.8秒 東経137度07分39.4秒 / 北緯35.339111度 東経137.127611度座標: 北緯35度20分20.8秒 東経137度07分39.4秒 / 北緯35.339111度 東経137.127611度 |
| 山号 | 青龍山 |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 本尊 | 聖観世音菩薩(迫間観音)、不動明王 |
| 創建年 | 元弘年間 |
| 開山 | 道忍 |
| 開基 | 土岐頼氏(長瀬入道沙彌道任) |
| 中興年 | 正保3年(1646年) |
| 中興 | 信海 |
| 札所等 | 東海三十六不動尊霊場三十五番 元・美濃国三十三ヵ所巡礼三十一番 |
| 法人番号 | 3200005008338 |
長福寺(ちょうふくじ)は岐阜県多治見市弁天町にある聖観世音菩薩と不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺院。東海三十六不動尊霊場三十五番。
歴史
鎌倉時代末期の元徳2年(1330年)、長瀬郷の領主で永保寺の壇越であった長瀬入道沙彌道任(土岐頼氏)[1]が開基し、
尾張国中島郡大須[2]の真福寺寶生院の五世の道忍を、勧請して開山したと伝わる。
正慶元年/元弘2年(1332年)、美濃国三十三ヵ所巡礼[3]が始まり、第三十一番札所となった。
文明年間(1496年~1487年)、領主より寺領として50石を下賜され、さらに燈明料として毎年30石の寄進があった。
正保3年(1646年)、住僧の清専は、尾張名古屋の大須観音真福寺寶生院の二十六世の信海を招いて中興開山とし、寺門興隆密法久住を念じ、信海より安養寺[4]一流の法流[5]を受け継ぎ法流地となり長福寺付法状[6]を与えられた。
この時から長福寺は真福寺寶生院の末寺となった。
土岐長瀬家累代の武運長久・繁栄を祈る祈祷寺院であったが、
戦国時代には、森蘭丸末弟の兼山城主の森忠政からも祈祷灯明田の寄進を受けている。
貞享4年(1687年)、大須観音寶生院と本末格法を結び、信海を中興開山とした。
往時は土岐川の片辺にあったため、度々の河水の氾濫によって堂宇が次第に頽廃していたが
元禄2年(1689年)河岸の堤防が崩壊して堂宇が水中に没し、四世の光圓が、本尊の観音菩薩、厨子と中に入っていた付法状、本堂の霊像経篋や古典籍の少数を移し出したが、印信や什物等は失われた。
流出後に長福寺は「當村の鎮守 本土大明神の別當として、社森の側に引地仕」とあり、本土神社の西側の現在地に再建されて別当寺となり、
享保12年(1727年)、光圓は木版刷りの「美濃國 三十三所縁起 幷ニ 御詠歌 道中記」を書き記している。
天保7年(1836年)、法流地相続料として五十両を寶生院に寄付し、従来通り法流地に取り立ててほしい旨を願い出ている。
その時の「青龍山長福寺 法流取建之勧化 二百十人 講連名簿」が残されているが、可児郡及び土岐郡内の諸氏、土岐郡内の寺院、尾張藩重臣の千村平右衛門家、尾張春日井郡半田川村の者まで、金を一分づつ寄進しており、かなり大がかりな講会が存在したことがわかる。
昭和9年(1934年)、弘法大師が入定後千百回忌の遠忌にあたり、東濃三弘法霊場を創設した。
昭和11年(1936年)、庫裏が竣工された。
昭和28年(1953年)、快典により本堂が再建された。本尊の脇仏として不動尊・大日如来(多治見市指定文化財)、聖天尊、弁財天がある。
昭和60年(1985年)、境内が整備され、水掛け地蔵が建立された。また2月の節分には豆撒き祭りで知られている。
寺宝
- 本尊:聖観世音菩薩坐像(伝行基作秘仏)
- 御前立:聖観世音菩薩立像(伝弘法大師空海彫刻)
- 脇侍:毘沙門天立像・勝軍地蔵菩薩立像
- 内陣:不動明王像・ハ臂宇賀弁財天坐像・歓喜天(元久々利城内中山堂安置)・弘法大師像・銅像双身毘沙門天立像(平安時代)(京都国立博物館に寄託)・おもかる地蔵他
- 境内:水子地蔵尊・宝篋印塔
- その他寺宝:華籠・涅槃図・十二天図・三宝荒神図・五大明王図・刀剣・聖教類他(約三千三百点)
指定文化財・天然記念物
多治見市指定文化財
- 大日如来坐像
(彫刻) 室町時代 木造 玉眼 像高38.5cm 指定年月日:昭和49年(1974年)7月24日
- 長福寺文書「美濃国池田御厨某寺奉加帳」
(古文書) 鎌倉時代 正安3年(1301年)頃 和紙 続紙 縦約25.5cm 長さ約6.5m 1点 指定年月日:令和4年(2022年)1月26日
寺院の建立または仏像の造営に関わる奉加帳である。寄付者は東濃地域、名古屋市~春日井市の地域と広範囲で、源頼氏のほか土岐源氏など武士や僧尼、庶民も含まれており、寄付者総数は1万人を超えている。
資料の後半に「正安三(年)正月三日」の書き込みがあり、字体の特徴や和紙の製法から見ても、正安3年(1301年)頃に作製された文書であると考えられる。多治見市内で確認されている古文書では最も古いものである。
是休庵
多治見市内の廃寺名簿の中に、「是休庵 新義真言宗 長福寺末」がある。
寛保3年(1743年)、長福寺は笠松陣屋へ願い書を出している。
可児郡 長瀬村 野端のうちに 醫王山 瑠璃寺 藥師院と申す寺號 御座候 是舊跡を取立、拙寺 閑居地に
この閑居地に是休庵を開山した阿門是休の名を取って是休庵としたと思われる。 寛延4年(1751年)、現在の順徳寺近辺に、かつて瑠璃寺という真言宗の古刹があったが、その址に是休庵と称する閑居寺を設けた。
寛延四未[9]二月 是休庵 開山
と長福寺文書に記されている。
明治5年(1872年)、無檀・無住寺院であったため太政官布告に基づいて岐阜県によって廃寺とされた。
関連リンク
参考文献
- 『多治見市史 通史編 上巻』 第二編 中世 第四章 中世の宗教 第一節 鎌倉仏教の弘布 青龍山長福寺 p372~p373 多治見市 1980年
- 『多治見市史 通史編 上巻』 第三編 近世 第七章 宗教と寺社 第三節 寺院 多治見市 p758~p759 1980年
- 『岐阜県百寺』 長福寺 p176~p177 郷土出版社 1987年
- 『東海三十六不動尊巡礼』 下休場由晴 p146~p148 1991年
脚注
- 長福寺_(多治見市)のページへのリンク