長沼澹斎
長沼 澹斎(ながぬま たんさい、寛永12年5月28日(1635年7月12日) - 元禄3年11月21日(1690年12月21日))は、江戸時代の軍学者。長沼流兵法の創始者。諱は宗敬(むねたか)。初名は伝十郎広敬、のち長じて三左衛門、宗敬と称し晩年に外記と改めた[1]。
生涯
寛永12年(1635年)、信濃松本藩士・長沼長政の子として生まれる。
松本藩主・松平直政(越前松平氏松江家)の転封に従い松江藩に移るが、のちに播磨明石藩主・松平光重(戸田松平氏)に仕え、美濃加納藩へと移り、加納城下の僧に儒学を学んだ。承応元年(1652年)、18歳で近習として出仕する。更に甲州流などの和式兵法や、『武備志』『紀効新書』などの中国の兵法を学んだ。
明暦2年(1656年)に22歳で浪人となり江戸に出て、のち筑後久留米藩主・有馬頼利に250石をもって寛文8年(1668年)まで仕えたが致仕。兵士の訓練法を研究した『兵要録』と、実戦での作戦の立て方を記した『握奇八陣集解(しゅうげ)』の2冊の兵法書を記し、長沼流兵法を興した。以来十数年掛けて兵法を教授し、多数の門弟を育成した。
天和2年(1682年)、明石藩主・松平直明(越前松平氏明石家)に家老並みの待遇で招聘されたが、天和6年(1686年)に病身の母親の療養のために再び致仕し、大坂に出て、のち山城国伏見に隠居した。名声を慕い、尾張藩・土佐藩などの大藩も招聘を試みたが動かず、 元禄3年(1690年)に同地で没した。享年56。墓碑が伏見の栄春寺に残る。
門弟のうち、福岡藩士の宮川忍斎系と、津藩士の佐枝尹重系が江戸時代末期まで全国諸藩に繁栄した。
思想
兵要録、「武議」の項で以下のように用兵の義・賊を述べている。
兵は凶器なり、戦は危事なり。之を用い天下の災いを定め、民の害を除けば、即ち義兵となる。之を用い過ち無きの城を攻め、辜(つみ)無きの人を殺せば、則ち賊兵となる。賊は好みて之を用い、君子は已むを得ずして之を用う—長沼澹斎[2]
脚注
参考文献
- 石岡久夫 編『日本兵法全集4 長沼流兵法』人物往来社、1967年 。
- 石岡久夫 編『日本兵法全集7 諸流兵法 下』人物往来社、1968年 。
- 石岡久夫『日本兵法史 : 兵法学の源流と展開 上』雄山閣、1972年 。
- 石岡久夫『日本兵法史 : 兵法学の源流と展開 下』雄山閣、1972年 。
- 石岡久夫『兵法者の生活 第3章 長沼澹斎の開基と教育』雄山閣〈生活史叢書 30〉 。
- 佐伯有義、植木直一郎、井野辺茂雄 編『兵要録(抄録)』時代社〈武士道全書 第四巻〉、1942年、155-180頁 。
- 竹内誠、深井雅海「日本近世人名辞典」2005年
- 山本覚馬、安藤優一郎「知られざる幕末維新の先覚者」PHP文庫 2013年
- 中村彰彦「会津論語」PHP文庫 2013年
関連項目
- 長沼澹斎のページへのリンク