長沼澹斎とは? わかりやすく解説

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長沼澹斎

(長沼宗敬 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/12 13:34 UTC 版)

長沼 澹斎(ながぬま たんさい、寛永12年5月28日1635年7月12日) - 元禄3年11月21日1690年12月21日))は、江戸時代軍学者長沼流兵法の創始者。は宗敬(むねたか)。初名は伝十郎広敬、のち長じて三左衛門、宗敬と称し晩年に外記と改めた[1]

生涯

寛永12年(1635年)、信濃松本藩士・長沼長政の子として生まれる。

松本藩主・松平直政(越前松平氏松江家)の転封に従い松江藩に移るが、のちに播磨明石藩主・松平光重(戸田松平氏)に仕え、美濃加納藩へと移り、加納城下の僧に儒学を学んだ。承応元年(1652年)、18歳で近習として出仕する。更に甲州流などの和式兵法や、『武備志』『紀効新書』などの中国の兵法を学んだ。

明暦2年(1656年)に22歳で浪人となり江戸に出て、のち筑後久留米藩主・有馬頼利に250石をもって寛文8年(1668年)まで仕えたが致仕。兵士の訓練法を研究した『兵要録』と、実戦での作戦の立て方を記した『握奇八陣集解(しゅうげ)』の2冊の兵法書を記し、長沼流兵法を興した。以来十数年掛けて兵法を教授し、多数の門弟を育成した。

天和2年(1682年)、明石藩主・松平直明(越前松平氏明石家)に家老並みの待遇で招聘されたが、天和6年(1686年)に病身の母親の療養のために再び致仕し、大坂に出て、のち山城国伏見に隠居した。名声を慕い、尾張藩土佐藩などの大藩も招聘を試みたが動かず、 元禄3年(1690年)に同地で没した。享年56。墓碑が伏見の栄春寺に残る。

門弟のうち、福岡藩士の宮川忍斎系と、津藩士の佐枝尹重系が江戸時代末期まで全国諸藩に繁栄した。

思想

兵要録、「武議」の項で以下のように用兵の義・賊を述べている。

兵は凶器なり、戦は危事なり。之を用い天下の災いを定め、民の害を除けば、即ち義兵となる。之を用い過ち無きの城を攻め、辜(つみ)無きの人を殺せば、則ち賊兵となる。賊は好みて之を用い、君子は已むを得ずして之を用う
長沼澹斎[2]

脚注

  1. ^ 石岡『長沼澹斎の経歴と門人』(日本兵法史 : 兵法学の源流と展開 下)、207頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12230524/1/115 
  2. ^ {佐伯有義植木直一郎井野辺茂雄 編『兵要録(抄録)』時代社〈武士道全書 第四巻〉、1942年、157頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1913238/1/84?keyword=兵は凶器 

参考文献

関連項目




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