銅脈先生とは? わかりやすく解説

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どうみゃく‐せんせい【銅脈先生】

読み方:どうみゃくせんせい

[1752〜1801]江戸中期狂詩作者京都の人。本名畠中正盈(はたけなかまさみつ)。号は観斎(かんさい)。銅脈先生は狂号。風刺のきいた狂詩大田南畝並び称される著作に「太平楽府(がふ)」「勢多唐巴詩(せたのからはし)」「太平遺響」など。


銅脈先生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 15:04 UTC 版)

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銅脈 先生(どうみゃく せんせい、1752年宝暦2年)- 1801年7月12日享和元年6月2日))は、江戸時代中期から後期の戯作者狂詩作者である。本姓は都築、後に畠中と改姓。名は正盈(まさみつ)。号は観斎(寛斎とも)。別号に太平主人、片屈道人、太平館主人、滅方海等がある。

経歴・人物

京都(一説に讃岐)に聖護院宮公家の一家であった畠中正冬の養子として生まれる。江戸に入り、初め那波魯堂の門人となり、儒学を学んだ。

後に戯作や狂詩に転じ、極めて滑稽な狂詩を詠んだほか、当時の庶民の社会的風習における憤慨や苦悩を痛烈に批判した作風を描いた戯作物を刊行する等、当時江戸で活躍していた大田南畝と共に狂詩及び戯作における代表的な作家となった。

日野龍夫は、平凡社東洋文庫版『太平楽府』(1991年)の解説のなかで、「狂詩史上、推して第一人者となすべき人物」と評し、「鋭い観察眼をもってとらえた愚かしくも愛すべき当世風俗の種々相を、時には冷たく見据え、時には暖かく包み、天賦の滑稽の才のもたらす自由自在の表現力と、卑俗を詠じて卑俗に堕さない品格とをもって描き出す作風」によって「狂詩という様式を完全に文学の域に押し上げた」(p313-314)と述べている。

耳鳥斎、松本奉時の描いた画への賛が多く確認されている。

主な著作物

狂詩集

  • 『太平楽府』- 1769年明和6年)に刊行。20世紀末に平凡社東洋文庫で翻刻。
  • 『勢多唐巴詩』
  • 『二大家風雅』
  • 『太平遺響』
  • 『太平遺響二編』

滑稽本

  • 『針の供養』
  • 『太平楽国字解』
  • 『風流三石士』

出典




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