鈴木章治とリズム・エースの活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 06:02 UTC 版)
「鈴木章治」の記事における「鈴木章治とリズム・エースの活躍」の解説
1957年1月、スウィングの王様といわれるベニー・グッドマン楽団が来日し、そのときに、ベニー・グッドマンと彼の楽団でリード・アルト・サックスを担当していたピーナッツ・ハッコーが、銀座のクラブで鈴木章治とリズム・エースが演奏していたのを聴いた。この時に「鈴懸の径」を非常に気に入って、その後の米欧巡演でも「プラタナス・ロード」として演奏、吹き込みを行っている(ベニー・グッドマンはピーナッツ・ハッコーを非常に優秀な奏者として賞賛していた)。鈴木章治は1954年頃には「ベニー・グッドマンの再現のみに全力を注いで録音したものでした」とTBSスタッフに解説されるほどグッドマンに傾倒していた。 ピーナッツ・ハッコーは、1957年1月17日にTBSのスタジオであるTBSホールでのリズム・エースの放送用録音にゲストとしてクラリネットで参加し、「鈴懸の径」(Platanus Road)、「アイサレンダーディア」(I Surrender Dear)、「君去りし後」(After You've Gone)などを録音した。この「鈴懸の径」の共演録音にはリクエストが殺到して、何度かLPレコード化され、ジャズ・レコードの記録を破る大ヒットとなった。 これを機に、鈴木章治とリズム・エースの人気はさらに高まり、1966年にニューヨークのエディ・コンドンのクラブに3週間連続で出演し、1982年にはカーネギー・ホールでのコンサートを実現した。 なお、灰田有紀彦(晴彦)作曲、灰田勝彦が歌ってヒットした原曲の「鈴懸の径」は、歌謡曲には少ない3拍子で、これを鈴木章治が4拍子にジャズアレンジしてさらに大ヒットさせたものである。1995年9月10日に心不全のため63歳で死去した。
※この「鈴木章治とリズム・エースの活躍」の解説は、「鈴木章治」の解説の一部です。
「鈴木章治とリズム・エースの活躍」を含む「鈴木章治」の記事については、「鈴木章治」の概要を参照ください。
- 鈴木章治とリズム・エースの活躍のページへのリンク