金敷吾輔と禅定場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:02 UTC 版)
加波山が専ら修験の霊場とされていた時代には、全山を表山、東山、裏山とに大別して修験者のみが各種の修行を行っていたが、近世後期には金敷吾輔(小森五助とも)が現れ、これら霊場を「禅定場」として整備体系化したとされる。吾輔は加波山の中興開山とも仰がれる人物で、7歳で本宮に入山して修行し、武術・法薬・医術を3本柱とする加波山三光流を編み出し、大塚久右衛門という猟師の道案内で山中の岩窟を廻ってこれらを霊場として整備したと伝えられている。多分に伝説化されてはいるが、文政2年(1819年)に彼の七回忌の追善供養碑が建てられており、また吾輔と久右衛門が寛政3年(1791年)に作成した禅定場の位置を記す『加波山絵図』も残されているので、その頃までにほぼ禅定場各所の整備・体系化を果たし、加波山信仰の布教に大きく貢献した人物であった事は慥かと思われ、これ以降一般の民衆が禅定場を巡拝する行為を指して「禅定」と呼ぶようになった。因みに、禅定場は俗に山中と里とに700余所あると言われるが、実際には山中に限られている。
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