郵政におけるマル生運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 06:08 UTC 版)
「マル生運動」の記事における「郵政におけるマル生運動」の解説
郵便の現場においても1960年代に入ると組合の発言力が強まり、中でも最大労組であった全逓信労働組合(以下全逓と略)がストライキを行ったり、意図的に郵便物を遅配させるなどの「闘争」を繰り広げてきた。このため国鉄同様に労働現場が荒廃し、郵政当局は1962年度からマル生運動を展開することになる。 全逓は当然のごとく全面反対の姿勢であったが、全逓の中でも比較的当局に協力的なグループは郵政当局の庇護の下で1965年に全日本郵政労働組合(全郵政)を結成、マル生運動に協力してゆく。全逓と全郵政の間では熾烈な引き抜き合戦が起き、中には逮捕者も出る始末であった。 このような中で起きたのが、1978年末から1979年初めにかけて全逓が繰り広げた年賀状などの年賀郵便の取扱拒否(越年闘争)であった。この年の年賀状配達は混乱し、4億3千万通もの年賀状が影響を受けた。年賀状という見える形での影響が出たため、全逓は世間から大きな批判を受け、郵政当局も1979年4月28日に全逓組合員に対し懲戒免職58名を含む8183名の大量処分を行った。 越年闘争が完全に裏目に出た全逓は懲戒免職処分を受けた組合員に対する賃金補填を続けたために組合の財政が傾くなど組織力の低下を起こし、国労のような強硬姿勢を続けることができなくなり、次第に当局との協調に転換していった。最終的に全逓と全郵政は1991年に合併、悲惨な末路をたどった国労とは異なり結果的に組織や組合員の生活を守ることができた。 このように同じマル生運動ではあったが、国鉄と郵政では逆の結末となった。
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