郡上での動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
郡上藩主金森頼錦は、宝暦6年(1756年)7月に参勤交代に伴う郡上帰国を予定していたが病気により延引され、宝暦6年9月7日(1756年9月30日)に郡上へ戻った。藩主の郡上入りに際し、在郡中であった郡上郡内の村方三役は藩領入り口で恒例の藩主の出迎えを行ったが、この時の藩主帰国時には出迎えに来なかった者も現れた。 江戸での駕籠訴吟味の過程で、駕籠訴人は郡上で拘束されている者たちの赦免を願い出ていたがそれが認められ、郡上藩側に赦免を行うように通知された。その結果、宝暦6年(1756年)10月には郡上郡内で入牢、手鎖、村預けとされていた者の多くが赦免された。 一方、藩主の郡上帰国後、郡上一揆のきっかけとなった有毛検見法の採用に批判的であった筆頭家老の金森左近が改易され、替わりに田島又五郎が取り立てられた。金森左近以外の有毛検見法採用に反対した郡上藩士も次々と失脚し、一方経済関連の役職が増員された。そして郡上藩側は宝暦6年も検見法による年貢取立てを強行し、宝暦6年中に年貢を納められない農民らは各村で手鎖の処分を受けた。
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