郝鵬 (中華民国)とは? わかりやすく解説

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郝鵬 (中華民国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/17 13:29 UTC 版)

郝鵬
『興亜月刊』第8期(1941年)
プロフィール
出生: 1881年光緒7年)[1][2][注 1]
死去: 1946年(民国35年)5月上旬[3]
中華民国 山東省済南市[3]
出身地: 直隷省順天府三河県[1][2][4][5]
職業: 官僚・政治家
各種表記
繁体字 郝鵬
簡体字 郝鹏
拼音 Hǎo Péng
ラテン字 Hao P'eng
和名表記: かく ほう
発音転記: ハオ ポン
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郝 鵬(かくほう、1881年〈光緒7年〉 - 1946年〈民国35年〉5月上旬)は、清末民初の官僚・政治家。浴滄[1][2][4][5]北京政府中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。また、1930年代前半には便衣隊を率いて日本側に協力し、撹乱活動を行ったこともある。

事績

清末と北京政府での活動

山東高等学堂を卒業し、奉天の小学堂総監督、留学予備学校教員、中学堂監督を歴任する。その後、湖北省官報局総理、『武昌日報』社長、山東省勧業公所農務科科長などをつとめた[1][2][4]

中華民国成立後の1912年民国元年)11月10日、北京政府で財政部僉事に任命された。以後、財務省で総務庁弁事、文牘科科長などを歴任し、1915年(民国4年)7月17日、中大夫の位を授与された。財政部僉事は1923年(民国12年)6月までつとめている。1924年(民国13年)12月13日から1926年(民国15年)1月まで直隷省財政庁庁長をつとめた[6]。その後、張宗昌の幕僚となり、安徽省省長兼財政庁長に任命された。1927年(民国16年)、いったん引退している[1][2]

華北での攪乱活動

引退後の郝鵬は天津に寓居しつつ、日本陸軍の三野友吉や土肥原賢二と連絡を取り合うようになったとされる。1931年(民国20年)11月以降、李際春や白堅武らと連携し、便衣隊を率いて3度にわたり反中華民国の挙兵を行った[4]

1933年(民国22年)5月の香河県での蜂起においては、郝鵬は「中華安国軍」の盟主を名乗って独立を宣言している[7]。しかし、河北省政府主席・于学忠に惨敗して捕虜にされ、日本の斡旋で辛うじて釈放された[8]

親日政権での活動

日中戦争勃発直後における郝鵬の動向は不詳である。しかし、梁鴻志が樹立した中華民国維新政府に後に参加し、1939年(民国28年)2月11日、江蘇省財政庁庁長に任命された[9]。同年9月23日、財政部次長署理に昇進している[10]

1940年(民国29年)3月30日に維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、郝鵬は中央政治委員会財政専門委員会専任委員に任命された[11]1941年(民国30年)10月、南京国民政府華北政務委員会で華北河渠委員会委員として任用された[1]

1942年(民国31年)1月29日、郝鵬は蘇淮特別区行政長官に任命され[12]、3月には蘇淮特別区保安司令も兼任した[1]1943年(民国32年)9月2日、蘇淮特別区行政長官を退任し(後任は郝鵬挙)、国民政府政務参賛に異動した[13]

最期

汪兆銘政権崩壊後、漢奸として訴追されると予測した郝鵬は、済南へ逃亡して隠れ住んだ。しかし、官憲の追及を恐れて心身の失調を来し、1946年(民国35年)5月上旬に病没した[3][注 2]。享年66。

注釈

  1. ^ 中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編(1987)、264頁は「1883年生」としている。
  2. ^ 中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編(1987)、264頁は「銃殺刑に処された」としているが、誤り。

出典

  1. ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、1006頁。
  2. ^ a b c d e 外務省情報部編(1937)、76-77頁。
  3. ^ a b c 「漢奸動態 郝鵬病死済南」『大同民報』民国35年5月16日、第4版。
  4. ^ a b c d 中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編(1987)、264頁。
  5. ^ a b 劉ほか編(1995)、1349頁。
  6. ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:郝鵬」
  7. ^ 『日本及日本人』275号、昭和8年6月15日号、104頁。
  8. ^ 「政整会釈放郝鵬」『国聞周報』第10巻第29期、民国22年7月24日、2頁。
  9. ^ 維新政府令、民国28年2月11日(『政府公報』第42号、民国28年2月20日、1頁)。
  10. ^ 維新政府令、民国28年9月23日(『政府公報』第74号、民国28年10月2日、1-2頁)。
  11. ^ 『大陸年鑑 昭和十八年版』大陸新報社、1942年、401頁。
  12. ^ 『日文国民政府彙報』第81号、民国31年2月5日、中国和文出版社、1頁。
  13. ^ 『国際月報』34号、昭和18年10月、情報局、154頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1 
  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和12年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編『天津市志叢刊 (二) 天津近代人物録』天津市地方史志編修委員会総編修室、1987年。 
  • 滕開君「我記憶中的郝鵬与郝鵬挙」中国人民政協江蘇省徐州市委員会文史資料研究委員会編『徐州文史資料 第6輯 (偽淮海省研究)』1986年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
蘇淮特別区行政長官
1942.1.29 – 1943.9.2
次代
郝鵬挙



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