遺骨と墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、いったん川崎市の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、横浜市西区久保町の久保山火葬場に到着し、火葬された遺骨は粉砕され、遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。 小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は、遺骨の奪還を計画した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。 1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている。 墓は雑司ヶ谷霊園にある。
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