遠山家当主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 11:51 UTC 版)
天文23年(1554年)、信濃国を領国化しようとしていた甲斐武田氏が南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)に東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、父の景前は降伏した。以後、遠山氏は武田氏に主従する者と、引き続き斎藤氏や尾張の織田氏と連携する者に分かれた。 弘治2年(1557年)7月13日、父の景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となった。 以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行が義龍に与して9月の明智氏の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近した。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母のおつやの方(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていった。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟遠山直廉の娘を養女として信玄の庶子武田勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田氏武田氏両家の連携の一環であった。 永禄12年(1569年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦いで矢傷を受けた遠山直廉が翌年の5月18日に戦傷死。遠山直廉には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。友勝の嫡男遠山友忠の妻は信長の姪である。
※この「遠山家当主」の解説は、「遠山景任」の解説の一部です。
「遠山家当主」を含む「遠山景任」の記事については、「遠山景任」の概要を参照ください。
- 遠山家当主のページへのリンク