道修町が「くすりの町」と呼ばれる由来
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館名に「くすりの道修町」とあるが、そもそもなぜ道修町がくすりの町と呼ばれるのかについて、考察する。道修町そのものの歴史については道修町#歴史を参照されたい。 寛永年間、道修町1丁目に堺の商人である小西吉右衛門が薬種屋を開き、道修町はくすりの町として歩み始めた。1722年(享保7年)、124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け、薬に値段を付け全国に売り捌くことが認められた。幕府が公認に至った背景として、当時の薬種の原料である中国から輸入された唐薬種や日本で採れる和薬種は、適切な品質であるかどうかを見分けるのが非常に難しかったため、知識をもつ薬種業者の検査が必要とされていたことが挙げられる。 1822年(文政5年)、大阪でコレラが流行した際、薬種業者が疫病除けの薬として虎の頭の骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきおうえん)」という丸薬を作って神前で祈祷後、庶民に無料配布したとされる。もちろん、虎頭殺鬼雄黄圓にはプラシーボ以上の効果はない。なお、道修町で疫病除けのお守りとして売られている張り子の虎はこれに由来している。 明治時代になると西洋医学が広まり、薬舗夜学校が開設され、薬種業者は西洋医学の勉強も始めたという。薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学の基となった。今でも、周囲には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行っている。これが、道修町がくすりの町と呼ばれる所以である。
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