逆川事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:27 UTC 版)
早川の村々から芦ノ湖の水を利用したいという要望があり、1895年(明治28年)11月に仙石村村長から静岡県に水引用の願出をしたが、不許可となった。これが原因となり、逆川事件へとつながった。1896年(明治29年)4月12日に、水利組合の見回り人の勝又勇蔵は、耕牧舎支配人須永伝蔵と仙石原農民達が、深良用水の水確保のために静岡県側水利組合が設けていた湖尻逆川(さかさがわ)人口河床(甲羅伏せ)を、破壊しているのを目撃し、水管理者の静岡県小泉村長に報告する「逆川事件」が発生した。1896(明治29年)年5月1日に沼津警察署長警部宛てに告訴状が提出され訴訟となり、横浜地方裁判所は被告無罪としたが、用水管理者は上告し東京控訴院は棄却という結果になった。原院検事長の野村維章は、東京控訴院の判断内容を検討し、水利の権利を破壊する行為として大審院に上告し、1898年(明治31年)に、大審院判決により、静岡県の深良村外六ケ村水利組合が勝訴した。大審院判決が決定する少し前から、静岡県知事の千家尊福の依頼により冨田鉄之助は和解調停と進め、和解決定之証を作成した。主な条件として、芦ノ湖の水や水門に関する権利は、従来通り、深良村外6ヶ村に専属することを確認し、芦ノ湖の貯水量を現在より2尺増やす堤防か防波石垣工事をすることを条件に、深良用水の10分の1を仙石原村外七ヶ町村へ字逆川口より分水することとして、和解式はしたが、工事も分水も行われなかった。
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