逃避行、北欧での最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 08:48 UTC 版)
「ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)」の記事における「逃避行、北欧での最期」の解説
そこでボスウェルは養父で大叔父のマリー大司教の援助により、6隻の商船と漁船を率いて自分の領地であるオークニー諸島に向かった。領民からは歓迎されたが、ボスウェル逮捕命令を受けた城の司令官が攻撃してきたため、もう一つの領地であるシェトランド諸島に向かった。ここでも歓迎を受けたものの、マリ伯が小規模の艦隊を送り込んできた。 ボスウェル一行は小さな船に乗り込み、ノルウェーに漂着した。しかし、ノルウェーからデンマークのコペンハーゲンに連行され、そこで身柄を拘束されることになった。その後、マルメー城からドラグスホルムの国事犯収容の監獄に移された。この頃のボスウェルは発狂していたという説がある。 1578年4月14日にボスウェルは獄死した。 ボスウェルには強圧的なところはなく、統治能力に優れていたという。彼は盗賊団の討伐だけでなく、経済を揺るがしてきていた国内の偽造通貨取り締まりなどにも、短期間で実績を挙げている。また、国王としての考えで、絶え間なく争い続ける各氏族の長たちを、輪番制の規則を作って枢密院の決定に従わせようとも考えていたらしい。もし、もう少しボスウェルに時間が残されていたのなら、争いの絶えなかった当時のスコットランドには平和がよみがえり、スコットランドは大きな発展をしていたかもしれないという説がある。
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