軽皇子の流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/31 16:10 UTC 版)
この姦淫、近親相姦を知った群臣は木梨軽皇子から離れて行き、その弟である穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)につく。允恭天皇が崩御した時、本来であれば長子である木梨軽皇子が即位するはずであったが、木梨軽皇子を支持する者はおらず、皆穴穂皇子を支持した。これを知った木梨軽皇子は腹心であった大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとするが、逆に追いつめられ、大前小前宿禰の裏切りにより木梨軽皇子は捕えられてしまう。その時に木梨軽皇子はこのような歌を詠んだ。 天(あま)だむ 軽の乙女 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の鳩の 下泣きに泣く 軽の乙女よ(言うまでもなく軽大娘皇女のことである)、そのように泣いては人に知られてしまうだろう、波佐の山の鳩のようにもっと静かに忍んで泣きなさい、というような意味である。そしてまたこのように詠んだ。 天(あま)だむ 軽の乙女 したたにも 寄り寝てとおれ 軽乙女とも 軽の乙女よ、しっかりと寄り添って寝ていなさい、というような意味である。 その後、木梨軽皇子は四国伊予へ流罪とされることになった。木梨軽皇子は「私は必ず戻ってくるから待っていなさい」と言い残し流刑地(伊予、現在の愛媛とされる)へと去ってしまう。またこのような歌を詠んだ。 天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ 鶴(たづ)が音(ね)の 聞こえむ時は 我が名問はさね 寂しくなったら空を行く鳥に私の名を訊ねなさい、そうすればきっとその鳥が私たちの間で言葉を運んでくれるから、というような意味である。この三首を天田振(あまたぶり)という。三首に共通する歌の意は、愛しい軽大娘皇女に累が及ばないようにという木梨軽皇子の心遣いであろうか。 そして軽大娘皇女は、旅立つ兄に歌を献じた。 夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな 明かして通れ 夜の浜で貝を踏んで足を怪我せぬよう、夜が明けてからお通りください、というような意味である。これは兄の身体を気づかったものであろう。
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