軽皇子と軽皇女とは? わかりやすく解説

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軽皇子と軽皇女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/31 16:10 UTC 版)

衣通姫伝説」の記事における「軽皇子と軽皇女」の解説

允恭天皇御世その子木梨軽皇子軽大娘皇女という兄妹がいた。二人母方叔母である八田王女(やたのおうじょ)は美しい女性で、その美しさが衣を通してあらわれるようだという意味を込めて衣通姫」と呼ばれていたが、軽大娘皇女もまた叔母似て美しかったため、同様に衣通姫」と呼ばれていた。 当時異母きょうだいであれば婚姻認められていたが、同じ母を持つきょうだいが情を交わすことは禁忌であった。これは、子供は母に属するものである考えられていたためである。しかし木梨軽皇子同母妹であるはずの軽大娘皇女思慕し、やがてその思い遂げてしまう。 小竹ささのは)に 打つや(あられ)の たしだしに 率寝(ゐね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝さ寝てば 刈薦かりこも)の 乱れ乱れ さ寝さ寝てば これはその時木梨軽皇子詠んだ歌である。笹の葉にあられが打つように、人が何を言おうと私は気にしない、こうして寝てしまったからには刈った後のように何が乱れてしまって構わない、というような意味である。これを「夷振の上歌(ひなぶりあげうた)」という。 (こも)は川や沼に生え一種マコモ参照)で、古来日本ではこれを刈り取って乾燥させ、ムシロ編んで利用した乾燥させる時にバラバラ撒いておくことから、「乱れ」の枕詞でもある。 しかしある朝允恭天皇朝食を摂ろうとすると、冬でもないのに汁物凍りついていた。これは不吉だと考えた天皇は、側近の者にこれを占わせる。その者は「身内良くないことが起こってます。おそらく通じている者がいるのでしょう」と答え二人の仲は周囲発覚してしまうのである

※この「軽皇子と軽皇女」の解説は、「衣通姫伝説」の解説の一部です。
「軽皇子と軽皇女」を含む「衣通姫伝説」の記事については、「衣通姫伝説」の概要を参照ください。

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