身代わりの死とは? わかりやすく解説

身代わりの死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:33 UTC 版)

マキシミリアノ・コルベ」の記事における「身代わりの死」の解説

1941年7月末、収容所から脱走者出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった囚人たち番号呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりなります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出許可したコルベと9人の囚人地下牢餓死室に押し込められた。 通常餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢え渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人励ましていた。時折内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえ祈り歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、当局コルベを含む4人はまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボス呼び寄せてフェノール注射して殺害した。 ボルゴヴィツはこのときのことを以下のように証言している。 マキシミリアノ神父祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実設けて外へ飛び出しました。監視兵とボフ出て行くと、もう一度地下降りましたマキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました亡骸は木の棺桶入れられ翌日カトリック教会では大祝日にあたる聖母被昇天の日である8月15日火葬場焼かれた。コルベ神父生前聖母祝日死にたい語っていたといわれている。

※この「身代わりの死」の解説は、「マキシミリアノ・コルベ」の解説の一部です。
「身代わりの死」を含む「マキシミリアノ・コルベ」の記事については、「マキシミリアノ・コルベ」の概要を参照ください。

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