財務大臣と海軍会計長官として
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「ウィリアム・バリントン (第2代バリントン子爵)」の記事における「財務大臣と海軍会計長官として」の解説
1761年3月12日、戦時大臣から財務大臣に転じた。そして、ニューカッスル公爵が1762年5月に辞任したとき、自分の派閥に留まるよう求めたため、バリントン子爵も海軍会計長官(英語版)への任命(1762年6月)を受け入れることができた。さらにはホイッグ党所属の友人に対しトーリー党政権と手を取り合うことを勧めたという。バリントン子爵自身の言葉によると、彼は常に政府を支持するわけではないが、反対するときは必ず強い理由をもって、公職からの辞任とともに行うとした。また、ほかの人が辞任したから辞任するということはせず、ニューカッスル公爵が間違っているときでも彼に従うことはしないとした。 第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュも辞任するに至り、バリントン子爵は彼の辞任が政権を不安定にすると憂慮した。というのもカントリ派ホイッグ党のデヴォンシャー公爵やキノウル伯爵(英語版)が辞任したため、トーリー党だけの内閣では庶民院での支持が不足しているためであり、ニューカッスル公爵が述べた通り倒閣運動が盛んになった。しかし、その間にもビュート伯爵、ジョージ・グレンヴィル、イグリモント伯爵、ハリファックス伯爵らとの友好関係を維持した。 1765年の第1次ロッキンガム侯爵内閣の組閣中、バリントンは7月17日にロンドンに戻り、ジョージ3世に対し戦時大臣への再任を求めた。26日にもチャタム伯爵による組閣が取り沙汰されると、再びジョージ3世に戦時大臣への任命を求めた。最終的に成立したロッキンガム侯爵内閣において、バリントン子爵は戦時大臣に就任した。
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