諸葛恪の驕慢
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建興元年(252年)閏4月、諸葛恪が太傅になり、滕胤を衛将軍に任命して、尚書の職務を兼任させた。また呂岱を大司馬に任命した。同時に文武百官の爵位を進めて恩賞を与え、等級も引き上げた。 同年冬10月、孫権の死に乗じて魏が南下を開始した。諸葛恪は巣湖に向かい魏の侵攻を押し止め、東興を築城した上で、全端・留略にそれぞれ西城・東城を守らせた。 胡遵・諸葛誕が歩兵・騎兵15万を率いて東興を包囲し、さらに魏は同時に南郡・武昌にも攻撃を加えてきた。12月19日、諸葛恪は大軍を率いて魏軍の迎撃に向かい、12月23日、東興において魏軍を破り、韓綜・桓嘉を斬った(東興の戦い)。 建興2年(253年)正月1日、全氏を皇后に立て、大赦を実行した。同年正月5日、南郡と武昌を攻撃していた魏軍も東興での敗戦を知って撤退した。同年2月、東興から軍が帰還し、盛大に論功行賞を執り行った。 同年3月、諸葛恪は魏の討伐に向かい、4月に合肥新城を包囲したが、疫病で多くの兵が死去し、失敗に終わった。 諸葛恪は元々驕慢な性格であったが、敗戦後、人事を専断するなどその専横ぶりがますますひどくなった。 同年10月、大饗の礼が催された。この時の宴席で、孫峻はクーデターを起こし、宮殿で諸葛恪を殺害し、専横を極めていた諸葛恪一派を一掃した。孫亮は怒り、この計画を知らなかった。大赦が実行され、孫峻が丞相・富春侯に任命された。
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