親族の粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:16 UTC 版)
ホンタイジは従兄のアミンに朝鮮へ遠征させ、朝鮮を弟、金を兄とする密約を結んだ。アミンは自身を外藩の王にするよう申し出たが、自らの力を弱めることを恐れたホンタイジは、これを断り叱責する。またこの頃から、アミンに対して警戒を強める。帰国したアミンはホンタイジによって幽閉された。アミンは元々ヌルハチの弟シュルガチの息子である。ヌルハチの実子たちの方が当然立場は強い。しかしホンタイジは、アミンにも容赦はしなかった。罪状は分派活動したこと、君命に従わなかったこと、永平などを放棄して漢人を虐殺したこと、である。アミンは10年後に死亡する。この裁決に他の兄たちは恐れ、女真伝統の合議制は崩れ、ホンタイジの独裁色が強くなっていく。 1629年、ホンタイジは兄のマングルタイと関係が悪化する。入関戦争の時ダイシャンとマングルタイは撤退を提案したが、ホンタイジは拒否した。この時は他の諸貝勅がホンタイジに賛成したので事なきを得たが、マングルタイは弟が尊大な態度を取るようになったことで不満を募らせた。1631年8月、大凌河城でマングルタイは自分の軍を補充するために立て直して欲しいと申し出たが、ホンタイジはマングルタイの戦闘が悪いと非難した。この言葉に激怒したマングルタイは刀を抜こうとした。弟のデゲレが押しとどめ、幕舎の外に連れ出した。この時の処罰は軽く、家僕の没収のみで済んだ。その処分から9か月後にマングルタイは死亡した。1635年、マングルタイの家僕であるレンセンギは「マングルタイは弟デゲレ、妹マングジ、妹の夫サノムと共に謀反を起こそうとした」と告発した。さらに幽閉中のアミンと連絡を取ったとも述べた。ホンタイジはマングジとマングルタイの息子エビルンを処刑し、マングルタイの正妃や子供、デゲレの子供は庶民に落とされた。マングルタイの正妃はホンタイジが子供の頃の面倒を見ており、ホンタイジに対して「恩知らず」と罵った。
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