親子の再会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:47 UTC 版)
1854年、シャミールは、グルジアのカヘチアに遠征した。彼が派遣した先遣部隊は、ダヴィド・チャヴチャヴァゼ・ツィナンダリ大公の領地に入り、大公の妻アンナ・イリイニチナ・チャヴチャヴァゼと彼女の2人の子供、彼女の妹ヴァルヴァラ・オルベリアナと彼女の子供を捕虜にした。シャミールは、息子を解放する取引材料となると考えて、彼女達を丁重にもてなした。チャヴチャヴァゼ大公には、長男ジャマルディンの引渡しと銀貨100万ルーブルが要求されたが、大公は4万ルーブルしか集められなかった。 その間、この事件の詳細とシャミールの要求は、直ちにペテルブルクに知らされた。ジャマルディン(ロシア名:ジェマル=エディン・シャミーリ(Джемал-Эддин Шамиль))を可愛がっていたニコライ1世は、彼をウランスク連隊(ポーランド駐屯)から呼び寄せ、父親の元に帰る意思について尋ねた。ジャマルディンは少し考えた後、そのことに同意した。ニコライ1世は、彼の誠実な勤務に感謝し、父親に悪意はないことを伝えるように頼んだ。 1855年3月10日、両者の捕虜交換が行われた。ロシア帝国軍の制服を着て戻ったジャマルディンを見て、弟のガジ=マホメドは驚き、チェルケースカ(カフカーズ山岳民族の襟のない裾長のコート)に着替えるように頼んだ。息子と再会したシャミールは、表情には表さなかったが、彼を長い間抱きしめて話さなかった。しかしながら、ロシア流の教育を受け、後にロシアとの和平を主張したジャマルディンは、故郷の理解を得られなくなっていく。
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