衣紋道の起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 19:39 UTC 版)
日本の朝廷や公家社会における装束は、律令などとともに中国に倣って導入され、着用者の身分や職掌、年齢によって、使用を許される色や形、文様などが細かく定められていた。また、四季の明瞭な日本では、夏の装束と冬の装束が分けられ、生地に加えて色彩も、それぞれの季節に相応しいものを着用することが求められるなど、規則にはない様々な慣習も存在した。 平安時代後期に武士が台頭するようになると、曲線美から直線的な美を志向する方向へと公家の美意識も変化し、装束の嗜好も、ゆったりとした柔装束から、糊張りを強くするなどした強装束へと変わっていった。強装束は、肩当てや腰当てといった補正具をも用いたため、一人で着ることが難しくなり、衣紋方と呼ばれる補助人が必要とされるようになった。 後三条天皇の孫の源有仁は、儀式や有職故実に通じた人物であるとともに、詩歌・管弦などに秀でた文化人で、衣服にも大きな関心を寄せ、強装束を美しく着付ける技術体系を編み出した。これが衣紋道の始まりとされ、有仁は衣紋道の祖とされる。一説では、強装束を始めたのも有仁だとされている。
※この「衣紋道の起こり」の解説は、「衣紋道」の解説の一部です。
「衣紋道の起こり」を含む「衣紋道」の記事については、「衣紋道」の概要を参照ください。
- 衣紋道の起こりのページへのリンク