衣笠貞之助の監督デビュー
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「牧野教育映画製作所」の記事における「衣笠貞之助の監督デビュー」の解説
また同年、日活向島撮影所を退社して国際活映(国活)に移ったものの、経営不振のため、国活を出て連鎖劇の巡業を始めた当時俳優の衣笠貞之助が、名古屋で巡業中に同地の映画館主から日活本社に苦情が入った。本社はこれをやめさせるべく、かつて日活向島撮影所長だった牧野に、衣笠一派の説得を頼んだ。牧野は名古屋に飛び、衣笠を説得、それと同時に彼らを「等持院撮影所」で引き受けることにした。同年衣笠は、内田との共同監督として『噫小西巡査』で監督としてデビューした。同作は10月29日、日活の配給で公開された。 いっぽう獏は『火華』を監督していたが、牧野との対立から撮影途中で放り出して、妻の紅沢とともに同社を去る。これを完成したのが衣笠であった。いずれにしても、すでに牧野は日活に大きな貸しをつくり、「興行映画の製作をしない」という条件も振り払い、新国劇のキラータイトルである行友李風原作の『国定忠治』の製作に入った。同作は同年12月31日、国活配給の「お正月映画」として華々しく公開された。出演したのは、『実録忠臣蔵』同様、無名の役者ばかりであった。 1923年(大正12年)、牧野は大石内蔵助、自来也、鼠小僧次郎吉、松平長七郎、大久保彦左衛門、清水次郎長といった定番の物語性あふれる人物を主題にした映画を連打した。やがて国活が本格的に映画製作を中止し、阪東妻三郎が流れ込んでくる。もう「教育映画」の看板は相応しくない。同社は「マキノ映画製作所」へと改組、それと同時に牧野は「マキノ省三」へと改名し、同社はその役目を終えた。
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