血塗られた権力闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:49 UTC 版)
1937年のルーマニア議会選挙において、軍団は票全体の15.5%を獲得し、自由党と農民党に継ぐ第3位の政党となった。ルーマニア国王カロル2世は、軍団の政治目的に強く反対し、1938年2月10日に政府を解散して、国王の独裁体制を敷いた。これは国王の愛人マグダ・ルペスク(en:Magda Lupescu)がユダヤ人の父を持つローマ・カトリック教徒なので、彼女に依頼されたという説もあるが、単にそれだけではない。まだこの時期は、軍団は概ね迫害を受ける方の立場で、カロル2世は政府から軍団を締め出すことに成功した。しかし、1940年には、国王自身が退位を余儀なくされることになる。 コドレアヌは1938年に逮捕されて投獄され、国家憲兵(ルーマニア語版、英語版)の護送のもと、1938年11月29日から30日の夜に他の数名の団員とともに処刑された。噂によると、この夜に脱獄を企てたといわれる。一般的には脱獄の企ては無かったと信じられており、コドレアヌやその仲間が処刑された理由は、1938年11月24日に軍団がアルマンド・カリネスク(国王の内閣の内務大臣)の関係者を殺害した事件への報復であり、国王が処刑を命じたとされる。 国王の独裁は長く続かず、1939年3月7日、カリネスクを首相とする新政府が組織された。同年9月21日、今度はコドレアヌが処刑されたことへの報復として、カリネスク首相が軍団に暗殺された。この後も、血で血を洗う報復が続いた。
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