蘇州日本人学校スクールバス襲撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/17 07:58 UTC 版)
蘇州日本人学校スクールバス襲撃事件(そしゅうにほんじんがっこうスクールバスしゅうげきじけん)は、2024年6月24日に中華人民共和国江蘇省蘇州市虎丘区で発生した日本人襲撃事件[1]。
概要
2024年6月24日、中華人民共和国江蘇省蘇州市において、日本人学校のスクールバスが襲撃される事件が発生した[2][3]。2024年6月24日16時頃、蘇州日本人学校から帰ってくる児童をバス停で待っていた日本人の母(以下、母A)と一緒にいた子供(以下、児童B)が、52歳の男性(以下、男性C)に切り付けられた[3][4]。男性Cは下校中の日本人児童らが乗るスクールバスに乗り込もうとし、それに気付いた乗務員の胡友平(こ・ゆうへい)が男性Cをつかみ後ろから抱きかかえて制止しようとし、複数回刺された[2][3][4]。母A・児童B・胡は病院に搬送された[3]。
この事件は、日中両国の政府および市民社会に深刻な衝撃を与えた。特に、中国に在住する多くの日本人にとっては、自らと家族の安全が脅かされる現実を突きつけられる形となり、コミュニティ全体に深刻な不安が広がった。中国当局は一貫して本件を「偶発的な事件」であると位置づけ、その計画性や特定の国籍を狙ったものではないと強調した[5]。
事件の発生と経緯
襲撃の瞬間
事件が発生したのは、2024年6月24日の午後、場所は江蘇省蘇州市虎丘区にある日本人学校のスクールバスが使用するバス停であった[2]。下校時間帯、児童らを乗せるために到着したスクールバスを、刃物を持った男が襲撃した。 犯人はまず、バス停で我が子の帰りを待っていた日本人の母親とその未就学児の子供に襲いかかった[2]。この襲撃により、母子ともに負傷した。犯人がこの親子を切りつけた後、多くの児童が乗車していたスクールバス本体に乗り込もうと試みた点である[2]。この行動は、犯人の当初の意図が、目の前の親子への加害に留まらず、バスに乗る児童全体へと被害を拡大させることにあった可能性を強く示唆している。
被害者と胡友平の行動
この状況で、犯人の凶行を阻止したのが、スクールバスの中国人案内係であった胡友平であった。彼女は、バスに乗り込もうとする犯人に対し、身を挺して立ち向かった。犯人を後ろから抱きかかえる形でその動きを制止しようと試みたが、その際に犯人から複数回にわたり刃物で刺され、重傷を負った[2]。胡は、日本人母子とともに直ちに病院へ搬送されたが、治療の甲斐なく、事件発生から2日後の6月26日に死亡した[6]。 胡の死は日中両国で大きく報じられ、その勇敢な行動は国境を越えて称賛と追悼の声が寄せられた[2]。
事件直後の対応と初期捜査
犯人は事件現場で通行人らに取り押さえられ、駆けつけた警察官によって直ちに身柄を確保された[2][7]。 事件発生を受け、蘇州日本人学校は児童の安全を考慮し、翌6月25日を臨時休校とする措置を取った。また、北京の日本人学校においても、同日から警備体制が強化されるなど、在中国日本人コミュニティ全体に緊張が走った[7]。在上海日本国総領事館は、事件発生当日に在留邦人向けの注意喚起情報を発出し、翌25日には赤松秀一総領事(当時)が胡が入院する病院を訪れて見舞った。 一方、中国当局は初期段階から、本件を「偶発的な事件」かつ「個人的」と位置づけ、計画性を否定する見解を示した[5]。
犯人像と司法手続き
加害者
犯人の年齢は52歳(犯行当時)、無職の男であった[8]。彼の出身地は安徽省であり、蘇州に出稼ぎに来ていたとされる。 中国当局による説明によれば、犯人は蘇州において定職に就いておらず、頼るべき家族もなく、社会的に深く孤立した状況にあったという[8]。
逮捕から死刑執行までの時系列
犯人の逮捕から死刑執行までの司法プロセスは、極めて迅速に進められた[7]。 事件発生から死刑執行までが10ヶ月弱という期間は、中国の司法プロセスにおいても異例の速さとされる。この迅速な対応は、中国当局が本件の幕引きを急ぎ、社会的な議論や憶測が広がることを防ぎたいという政治的意図を反映している可能性が指摘されている。
- 2024年6月24日、事件発生。犯人を現場で逮捕[7]。
- 2024年6月25日、在上海日本国総領事館総領事赤松秀一は胡が搬送された病院を訪れて見舞った[3]。
- 2024年6月26日、バス案内係の胡友平が死亡[3][4]。同日、北京の在中国日本大使館は半旗を掲げて哀悼の意を表した[6]。
- 2024年11月29日、蘇州市人民検察院が犯人を起訴(中国外務省が発表)[9]。
- 2025年1月9日、蘇州市中級人民法院にて初公判。
- 2025年1月23日、故意殺人罪で死刑判決。
- 2025年4月15日頃、犯人の死刑を執行(4月16日に日本側に連絡)。
裁判と動機
2025年1月23日の判決公判において、裁判所が認定した犯行動機は、「借金苦により生きているのが嫌になった(因債務問題導致厭世)」というものであった。判決理由では、「犯行は極めて悪質で、社会的影響は重大である」と指摘された。 しかし、この司法手続きにおいて、裁判所は判決理由で、犯行が「日本人を標的としたものかどうか」という点について、一切の言及を避けた。
また、1月9日の初公判においても、被告や弁護側から、犯人は「借金苦」という個人的な動機しか述べず、日本との関係についての言及はなかったと報じられている。 なぜ犯人が日本人学校のバス停を選んだのかという問いに答えないまま司法手続きは完了した。死刑判決から執行までの期間が極めて短かったことは、上訴の機会を事実上限定し、犯人自身が動機について詳しく語る機会が失われたことを意味する。これにより、事件の背景にある排外主義や経済格差といった社会問題への議論が深まることを防ぐ「議論の封殺」として機能したとの見方もある[10]。
事件の背景
中国政府の公式見解
中国政府は事件発生直後から一貫して、本件を「偶発的な事件」であり、「世界のどこにでも起こりうる」ものだと説明してきた[5]。中国外務省の報道官は定例会見で、外国人を特に狙ったものではないと繰り返し強調し、中国が外国人にとって安全な国であるというイメージの維持に努めた[5]。また、事件後の2024年9月24日、中国外務省の報道官は定例の記者会見で、日本人学校の男子児童が殺害された事件が起きて以降、日本国内で中国の安全上のリスクが「大げさに誇張されている」と反発した[5]。
社会経済的要因
公式見解とは裏腹に、事件の背景には深刻な社会経済的要因が存在するとの指摘がなされている。近年の中国経済は、不動産不況の深刻化、若者の高い失業率、地方政府の財政難といった複合的な課題に直面している。こうした状況は、社会全体に閉塞感と不満を蔓延させている[11]。 犯人が「無職」で「借金苦」を抱え、故郷を離れて「出稼ぎ」に来ていた社会的弱者であったという事実は、マクロな経済問題が一個人の絶望に直結し、社会への無差別な暴力行為の引き金となりうることを示している[11]。
日本人学校への排外的なデマ
事件の背景として、2021年頃から、中国のソーシャルメディア(SNS)や動画サイト上で「日本人学校はスパイ養成機関である」といった、事実無根の悪質なデマ動画が拡散されていたことが報じられている[12][13][14][15]。このような偽情報は、反日感情を刺激し、日本人コミュニティ全体への敵意や憎悪を醸成する土壌となりうる。 一部の専門家は、従来の政治的な「反日」感情を超え、より個人的な憎悪や敵意を伴う「仇日」とでも言うべき意識が、中国社会の一部で先鋭化していると警鐘を鳴らしている[16]。
「献忠学」との関連
安田峰俊は、2021年頃から中国で流行しているインターネット・ミーム「献忠学」の影響を指摘している[17]。これは、明朝末期に四川省で大規模な虐殺を行ったとされる反乱指導者・張献忠の名に由来し、社会への絶望から無差別殺傷に走ることを肯定、あるいは様式美として語るニヒリスティックなサブカルチャーである。「献忠学」は、経済的格差や社会的不公正に苦しむ人々が、無差別な暴力による社会への復讐を空想する中で生まれたとされる。裁判で認定された犯人の動機、「生きているのが嫌になった」という言葉は、この種の絶望的な思想と高い親和性を持つ。
事件後の反響と影響
市民社会の反応
胡友平の英雄的な行動に対しては、国境を越えた賞賛と追悼の波が起こった。日本のSNSでは「日本の子どもたちを守る勇気と行動に感謝いたします」「あなたの名前は忘れません」といったコメントが寄せられた[16]。中国国内でも同様に、彼女の自己犠牲を称え、哀悼の意を示す書き込みが多数寄せられた[16]。事件現場のバス停には、彼女の死を悼む中国市民が献花に訪れる光景も見られた。
中国側の賞賛に関しては、胡友平さんの英雄性を強調することで、中国人の愛国心を鼓舞しようとするものだという批判がある[18]。これは、2019年の年末、中国湖北省武漢市で、初めて新型コロナウイルスに対する警告を発し、その後自らも感染して、2020年2月6日に死去した医師・李文亮氏に対して取った措置を髣髴させる動きと言える[18]。
また、中国のインターネット空間の一部では、胡さんを「日本のスパイ」とする中傷や、「日本人は全滅すればいい」といった書き込みなど過激な投稿も見られた[19][20]。これらの投稿は後に当局によって削除されたとみられ[19]、中国の世論が良識的な市民感情と過激な排外主義が併存する複雑な状況にあることを露呈させた[20]。
日中両政府の対応
日本政府は本件を深刻に受け止め、上川陽子外務大臣(当時)は、胡の逝去に際し、「深い悲しみを禁じ得ません」「勇気ある行動に改めて深い感謝と敬意を表する」との声明を発表した[21]。また、外交ルートを通じて中国側に対し、在留邦人の安全確保と実効性のある再発防止策を講じるよう強く申し入れた。その後、深圳で別の日本人小学生が殺害される事件が発生した際には、犯人の動機を含む事実解明と具体的な安全確保措置を改めて要求した。
金杉憲治駐中国大使は、「中国東北部の吉林省でも10日、米国人の大学教員ら4人が刃物で刺された。中国に対する日本人の心理的な敷居がさらに高くなり、旅行や訪問に影響が出てこないか心配だ。」と見解を示している[22]。
中国政府は、外務省会見などを通じて「外国人の安全を守るため引き続き有効な措置を取る」と表明した[20]。その一方で、蘇州市の公安局は、胡の行動を「身の危険を顧みずに阻止しようとした」「果敢に対抗することでより多くの人々が被害を受けるのを防いだ」と公式に称賛した[7]。これは、国内世論を安定した方向へ誘導する狙いがあったとみられている。
在中日本人コミュニティへの影響
この事件は、その後に発生した深圳での日本人小学生殺害事件と相まって、在中国日本人コミュニティに深刻な不安と動揺を広げた。在留邦人、特に子供を持つ保護者の間では、日本人であるというだけで襲撃の理由になるのではないかという恐怖が現実のものとなった。 事件後、各地の日本人学校では警備体制が強化された。個人レベルでも、防犯対策や自衛策への意識が高まった[23]。外務省や現地の総領事館も、繰り返し注意喚起を行っている[24]。
東芝やトヨタ自動車は、暴力の可能性に警戒するよう関係者に呼びかけた。パナソニックは、帰国時の飛行機代を負担すると発表している[25]。
広州日本人学校は一部の活動を中止し、公共の場で大きな声で日本語を話すことを控えるよう警告した[25]。
在中日本人学校は、「南京事件」の追悼日にあたる12月13日は、休校にしたりオンライン授業に切り替えたりして、安全確保のための対応をとった[26]。
同様の事件
- 2024月4月、中国江蘇省蘇州市の日本料理店が並ぶ通りで、日本人男性が中国人男性に切り付けられ、首に軽傷を負った。男は直後に警察に身柄を拘束された[27]。
- 2024年6月、中国吉林省の公園でアメリカ人の大学講師4人が刃物で刺され負傷する事件があった[28]。
- 蘇州日本人女性襲撃事件 - 2025年7月31日、中国江蘇省蘇州市で子供を連れて歩いていた日本人女性1人が何者かに襲われて負傷した[29]。容疑者の身柄は確保されておらず、日本人を狙った犯行かといった動機は明らかになっていない。
- 深圳日本人男児刺殺事件 - 本事件の約3ヶ月後に発生した、本事件と同様に中国在住の日本人の子供が中国人による攻撃を受けた事件。
脚注
- ^ “苏州警方通报2名日本公民遇袭事件,嫌疑人已被刑拘 南方Plus”. 2024年11月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “バス襲撃で重体の中国人女性が死亡 日本人母子かばう、大使館が半旗:朝日新聞”. 朝日新聞 (2024年6月28日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e f 「中国蘇州 日本人学校バス襲撃 重体の中国人女性が死亡」『NHK』2024年6月28日。オリジナルの2024年6月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c 「子どもを守った中国人女性・胡友平さん亡くなる 蘇州の日本人母子切りつけ 日本大使館は半旗を掲揚」『東京新聞』2024年6月28日。オリジナルの2024年6月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e “中国の安全上リスク「大げさに誇張されている」 中国外務省の報道官が反発 男子児童刺殺事件と「反日的言論」は無関係と強調”. TBS NEWS DIG (2024年9月24日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b “バス襲撃で重体の中国人女性が死亡 日本人母子かばう、大使館が半旗:朝日新聞”. 朝日新聞 (2024年6月28日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c d e “中国蘇州日本人学校関係者の刺傷被害について”. www.anzen.mofa.go.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b “蘇州スクールバス殺傷事件に対する中国当局や国民の反応を考察する”. rkb.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “中国・深圳の邦人男児刺殺事件で中国人の男を起訴 蘇州の母子切り付け事件でも男を起訴”. 産経新聞. (2024年12月27日) 2024年12月31日閲覧。
- ^ “蘇州の日本人学校バス襲撃、男の死刑執行 なぜ日本?言及ないまま:朝日新聞”. 朝日新聞 (2025年4月17日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b “「日本人学校はスパイ養成機関」中国スクールバス襲撃を引き起こした“反日デマ動画”が支持される背景”. diamond.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “蘇州日本人学校バス襲撃事件の背景に、中国でまかり通る「日本蔑視策」”. 現代ビジネス (2024年6月27日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ “中国はもはや「反日」ではなく「仇日」、蘇州日本人襲撃事件の裏 ...”. diamond.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “【魚拓】日本在我国拥有35所神秘学校,禁止中国人进入,他们到底想干嘛?”. ウェブ魚拓. 2025年10月17日閲覧。
- ^ Inc, Nikkei (2024年9月21日). “中国の動画投稿大手、日中対立あおる誤情報を規制”. 日本経済新聞. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c “「日本人学校はスパイ養成機関」中国スクールバス襲撃を引き起こした“反日デマ動画”が支持される背景”. diamond.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ 安田峰俊 (2024年9月26日). “《深圳・日本人学校10歳男児死亡事件》中国政府発表を肯定する父親の「感動の手紙」仰天背景”. 文春オンライン 2024年10月6日閲覧。
- ^ a b “【日本人学校バス襲撃事件】死亡した中国人女性を「英雄視」する当局の意向、遺族が拒否したワケ 東アジア「深層取材ノート」(第240回) | JBpress (ジェイビープレス)”. JBpress(日本ビジネスプレス). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b “【日本人学校バス襲撃事件】死亡した中国人女性を「英雄視」する当局の意向、遺族が拒否したワケ 東アジア「深層取材ノート」(第240回) | JBpress (ジェイビープレス)”. JBpress(日本ビジネスプレス). 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b c “中国のソーシャルメディアが「反日」投稿を規制 容疑者賛美の投稿も:朝日新聞”. 朝日新聞 (2024年7月1日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ “上川陽子外務大臣による記者会見における弔意表明(2024年6月28日)”. www.cn.emb-japan.go.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “【日本人学校バス襲撃事件】死亡した中国人女性を「英雄視」する当局の意向、遺族が拒否したワケ 東アジア「深層取材ノート」(第240回) | JBpress (ジェイビープレス)”. JBpress(日本ビジネスプレス). 2025年10月17日閲覧。
- ^ “【蘇州治安まとめ】ホテルをとるべき治安のよいエリアと現地人が避ける危険エリア”. sekaishinbun.net. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “安全対策情報】トラブルに巻き込まれないようにご注意ください。(第2報)”. www.anzen.mofa.go.jp. 2025年10月17日閲覧。
- ^ a b “中国の日本人コミュニティーで不安広がる 日本人学校の男児刺殺”. BBCニュース (2024年9月21日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ 日本放送協会 (2024年11月28日). “中国の日本人学校 “南京事件の日” 安全確保へ休校など対応”. NHKニュース. 2025年10月17日閲覧。
- ^ Inc, Nikkei (2024年6月26日). “中国で春にも日本人切り付け 蘇州、不安高まる”. 日本経済新聞. 2025年10月17日閲覧。
- ^ “米大学講師4人、中国の公園で刺される 被害者が当時の状況を説明”. BBCニュース (2024年6月13日). 2025年10月17日閲覧。
- ^ 聖平, 三塚 (2025年8月1日). “中国・蘇州で子供連れの日本人女性が襲われ負傷 地下鉄駅構内で石のようなもので殴られる”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年10月17日閲覧。
関連項目
- 蘇州日本人学校スクールバス襲撃事件のページへのリンク