藤原行家 (平安時代後期の貴族)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:35 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 平安時代中期-後期 |
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生誕 | 長元2年(1029年) |
死没 | 長治3年2月19日(1106年3月26日) |
官位 | 正四位下、讃岐守 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家日野流(真夏流) |
父母 | 父:藤原家経、母:藤原公業の娘 |
兄弟 | 正家、行家、広家、長済、経円、藤原通宗室、藤原弘信室 |
妻 | 藤原実範の娘、藤原永業の娘 |
子 | 行盛、広実、宗国、有業、真家、定円、信誉、藤原良兼妾、高階敦遠妾 |
藤原 行家(ふじわら の ゆきいえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家日野流(真夏流)、式部権大輔・藤原家経の次男。官位は正四位下・讃岐守。
経歴
後冷泉朝の康平3年(1060年)対策に及第し、康平5年(1062年)左衛門権佐(または左衛門少尉)に任ぜられる。また、この頃蔵人を務めている。
白河朝の前半は左衛門権佐を務める一方で、防鴨河使・文章博士を兼帯し、この間の承暦2年(1078年)従四位下に叙せられている。永保3年(1083年)阿波守として地方官に転ずると、寛治4年(1090年)美作守、寛治7年(1093年)讃岐守と、白河朝後半から堀河朝前半にかけて地方官を務めた。またこの間の寛治元年(1087年)には堀河天皇の大嘗会において主基方の和歌を献じている[1]。その後、堀河朝半ばには弾正大弼として京官に復し、位階は正四位下に至った。康和2年(1100年)11月23日に延暦寺に登って出家し、長治3年(1106年)2月19日卒去。享年78。
勅撰歌人として、『金葉和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[2]。
官歴
- 康平3年(1060年) 4月:対策及第[1]
- 時期不詳:蔵人[3]
- 康平5年(1062年) 正月:左衛門権佐または左衛門少尉、検非違使宣旨[1]
- 時期不詳:正五位下
- 承保2年(1075年) 5月14日:見左衛門権佐兼土佐介[4]
- 承暦元年(1077年) 閏12月4日:見防鴨河使[5]
- 承暦2年(1078年) 正月6日:従四位下[6]
- 承暦4年(1080年) 12月27日:見左衛門権佐防鴨河使文章博士周防介[7]
- 永保元年(1081年) 2月10日:文章博士[8]
- 永保3年(1083年) 2月1日:阿波守、止左衛門権佐[6]
- 寛治元年(1087年) 11月22日:前阿波守[9]
- 寛治4年(1090年) 8月10日:美作守[9]
- 寛治7年(1093年) 12月18日:讃岐守[9]
- 時期不詳:正四位下
- 承徳3年(1099年) 11月20日:見弾正大弼兼讃岐守[10]
- 康和2年(1100年) 7月24日:見讃岐守[11]。11月23日:出家(登山)[1]
- 長治3年(1106年) 2月19日:卒去[9]
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:藤原家経
- 母:藤原公業の娘
- 妻:藤原実範の娘
- 男子:藤原行盛(1074-1134)
- 男子:藤原広実(?-1087)
- 男子:藤原宗国
- 妻:藤原永業の娘
- 男子:藤原有業(?-1132)
- 生母不詳の子女
- 男子:真家
- 男子:定円
- 男子:信誉
- 女子:藤原良兼妾
- 女子:高階敦遠妾
脚注
参考文献
- 藤原行家_(平安時代後期の貴族)のページへのリンク