蔭戸を摘発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
9月、太傅慕容評の執政以降、王侯貴族らが密かに多くの戸籍を隠し持つようになっており、国家が所有する戸籍は減少していた。その為、倉庫は空となり、資材の供給も不足するようになっていた。尚書左僕射悦綰はこの状況を憂え、慕容暐へ「太傅の政治は寛大でありますが、故に人々の多くが隠れて事をなしております。『春秋左氏伝』によりますと『唯有徳者能以寛服民、其次莫如猛(徳にある者だけが寛大さをもって民を統治できる。その次に良いのが力強くする事だ』といいます。現在、三方(前燕・前秦・東晋)が鼎立して互いに併呑の心を有しておりますが、にもかかわらず今、国家の政法は正しく立っておらず、諸軍の営戸(支配階級が私的に抑えている民家)は三つに分かれて存在しており、風教は衰退し、規律は乱れております。豪族・貴族が欲しいままに民家を尽く食いつぶし、委輸(国家への献上物)は全く入っておりません。官吏への俸給や士卒への食糧供給も満足に出来ておらず、逆に官員から恵んでもらっているような有様です。このような事が隣国に知られる事はあってはなりません。どうか、諸々の蔭戸(私的に隠し持っている戸籍)を廃して郡県に返還し、国庫を充足させるべきです。法令を粛々と明らかにし、どうか四海を清らかにしていただきますよう」と進言した。慕容暐はこれに同意すると、悦綰に命じてこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、王公は隠し通すことが出来ず、公民は20万戸余りも増員する事が出来た。だが、私腹を肥やしていた官民たちはこの措置に大いに憤り、慕容評もこれを大いに不満とした。 11月、悦綰はこの世を去った。病死したとも、慕容評の派遣した賊によって暗殺されたとも言われる。
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