茨城師範から高師へ(1886-1893)
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1886年(明治19年)9月に茨城中を卒業した道明は、家計の事情で上京することがかなわなかったため、茨城師範学校(現・茨城大学教育学部)へ進学した。ここで道明は兵式体操と出会って心身を鍛錬し、その成績が優秀であったことから運動会や卒業式での兵式体操の指揮号令を担当した。1年生を途中で飛び級したことから、1889年(明治22年)春に茨城県尋常師範学校(茨城師範学校から改称)を卒業し、同附属小学校(現・茨城大学教育学部附属小学校)訓導に着任した。教員生活は1年で終わり、1890年(明治23年)に高等師範学校(高師、後の東京高等師範学校、現・筑波大学)博物科に進学した。 道明が進学した当時の高師は、募集する学科は年に1つだけであり、受験生が自由に希望学科を選ぶことはできなかった。入学早々、道明はテニスにはまり、1学期の間に靴を2足も破るほどで教師の称賛を集めたが、あまりにも熱中しすぎたため、自制のために2学期からはそれほど得意ではなかった鉄棒に転向した。茨城師範時代から練習していた器械体操の蹴上(けあがり)の習得には3年もかかり、この経験が指導者になった際に役立ったという。不得意ながらも日々鉄棒に向かう道明を、学生仲間は「鉄竿上人」とあだ名した。また、高師では普通体操を坪井玄道から学んだが、すでに水戸で星野久成に学んでいた道明は坪井の癖のある動作を見抜いていた。
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