自由民主党結党まで
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初当選後、民主自由党の吉田内閣への連立問題を巡り、連立派と分裂した野党派に属した。野党派は、その後、国民協同党、新政治協議会と合併し、1950年4月28日、国民民主党が結成、国民民主党はさらに、1952年2月8日、農民協同党、新政クラブと合併し、改進党を結成、さらに1954年1月24日、自由党新党準備会派、改進党、日本自由党が合併し、日本民主党が結成された。こうした中、民主党政調理事、国民民主党組織企画部長などを務め、たばこ問題、けい肺病問題などに取り組んだ。 初当選後は、葉たばこ収納代金の概算払い制度(前年の収納額の約20%を7月に支払う。)に関する法律の成立に尽力した。この制度はその後、米作にも導入された。初当選した1949年7月25日に、旧制静岡高校の恩師、桜井和市より東京大学に在学中だった眞弓と引き合わされ結婚した。 1952年10月1日の第25回衆議院議員総選挙では34,573票を獲得し第4位で当選したが、選挙違反容疑で警察の手入れを受けた。バカヤロー解散を受けて1953年4月19日に行われた第26回衆議院議員総選挙では31,208票で次々点の7位と落選した。 落選中は、けい肺法案の実現に奔走。鳩山ブームに乗った1955年2月の第27回衆議院議員総選挙では、52,528票でトップ当選した。同年7月に「けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法」が成立した。
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