自害説と異論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:51 UTC 版)
明応3年(1494年)、出家して「道寸」と称していた義同が大森氏の支援を受けて挙兵して三浦郡を攻撃、三崎城を攻め落として時高・高教父子を自害に追い込んだ。世の人々は「永享の乱で主君・足利持氏を裏切って攻め滅ぼした報いだ」と評したと言う。 ところが、近年この義同の挙兵・時高の自害については疑問が出されている。これは、この話が主に大森氏及び相模三浦氏を攻め滅ぼした後北条氏に関係があるとされる記録類から出た物が多く、これを裏付けするだけの証拠がないというのである。また、時高が没したとされる日よりほぼ1ヶ月前に大森氏頼が病死して大森氏の家中は後継問題で紛糾していたとも言われており、大森氏が義同のために兵を挙げるような状況ではなかったと考えられている。 更に当時は扇谷上杉家と山内上杉家による長享の乱の最中であり、その当事者で高救・義同父子と対立関係にあった上杉定正が時高死去とされる日からわずか十数日後に事故死しているのである。 この時期の三浦氏とその周辺を巡る情勢は極めて流動的であり、明応3年秋から冬にかけての時高の死と義同の三浦氏継承は事実であったとしても、その間に実際には何があったのかという点については不明な点も多い。従って、時高の死因も自殺か病死か、また義同への家督継承がどのような経緯を辿って行われたものなのかは明らかではない。
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