臨海工業地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 08:03 UTC 版)
後に脇浜海岸通となる埋立地は複数の業者によって段階的に拡張されていったものである。まず明治41年(1908年)から神戸葺合港修築会社が、新生田川以東の真砂通二丁目~脇浜町三丁目地先の11万km2余りを埋め立てて葺合港と呼ばれる船溜を築造、2年後の明治43年(1910年)に完成させた。大正4年(1915年)には川崎造船所が、葺合港湾埋立地の東側、脇浜町三丁目地先の海面約5万7000m2を製板工場(後の川崎製鉄阪神製造所)の用地として埋め立てを始めた。同時に神戸製鋼所も、その東側、脇浜町二~三丁目地先の海面13万1000km2を脇浜工場の用地として埋め立てに着手。3年後の大正7年(1918年)、両社とも竣工して、操業を開始した。 大正10年(1921年)、脇浜町一~三丁目の地先の当時の国道2号以南の埋立地を合わせて脇浜海岸通が誕生した。 昭和元年(1926年)、日本エヤーブレーキ(後にナブコと改名)の本社と神戸工場が脇浜町一丁目から移転、同工場では鉄道車両用エアーブレーキ装置が製造されていた。 以前の脇浜海岸通はこのように大規模工場の存在する工場地帯であった。
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