羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」
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羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。 聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。
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