羽柴秀吉の「二条第妙顕寺城」とは? わかりやすく解説

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羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)

二条城」の記事における「羽柴豊臣秀吉の「二条第・妙顕寺城」」の解説

羽柴秀吉豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉信長在世中にも二条御新造隣接地屋敷有していたが、天正8年1580年)に信長によって没収されお気に入りであった関白近衛前久献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人逃げ出したこの屋敷占拠した明智軍ここから二条新御所攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれ付いて前久が光秀加担したとの風説流された。その後天正11年1583年)、本拠地大坂定めた秀吉京都における拠点として「二条第」を構えた妙顕寺移転させその跡地建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる周囲に堀を巡らし天守もあった。 聚楽第完成まで秀吉政庁として使われ普段前田玄以が在城した。所在地二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節引き連れて聚楽第秀吉訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ前日豪華な秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置時期から言ってこれがこの二条であった可能性が高い。

※この「羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」」の解説は、「二条城」の解説の一部です。
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