羽柴・豊臣の時代とは? わかりやすく解説

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羽柴・豊臣の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 15:51 UTC 版)

佐和山城」の記事における「羽柴・豊臣の時代」の解説

天正10年1582年6月本能寺の変の後行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政与えられ、秀政は翌年入城した。これ以降事実上豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政留守中は弟の多賀秀種城代務めた天正13年1585年)には、転封となった堀家替わって堀尾吉晴入城この頃には約10キロ南西にあたる至近安土城廃城となった。さらに石田三成入城したとされる入城時期については天正18年1590年7月説と、文禄4年1595年7月説があったが、伊藤真昭の研究により、天正19年1591年4月であることが確定した(ただし、伊藤天正19年入城城代蔵入地代官としての入城で、三成正式に佐和山城主に任じられ北近江4郡を与えられたのは文禄4年7月であったことも立証している)。三成は、当時荒廃していたという佐和山城大改修行って山頂五層三層説あり)の天守高くそびえたつほどの近世城郭築き当時落首に「三成過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成奉行の任を全うするために伏見城滞在することが多く実際に城を任されていたのは父の正継であった城内作り極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった庭園樹木ありきたりで、手水鉢粗末な石で、城内様子見た当時の人々すこぶる案外に感じた記されている(『甲子夜話』)。

※この「羽柴・豊臣の時代」の解説は、「佐和山城」の解説の一部です。
「羽柴・豊臣の時代」を含む「佐和山城」の記事については、「佐和山城」の概要を参照ください。

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