義足での復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 09:58 UTC 版)
負傷により後送され右足下腿部の断端形成手術を受け、療養のために日本内地に帰国。陸軍病院にてジュラルミン製の「恩賜の義足」を履く。空中勤務者には不可欠の足を失っているため一時は復帰の道を絶たれるが、檜自身の強い意思と文字通り血の滲む懸命なリハビリによって空へと戻ることを認められる。1944年(昭和19年)には前任の第64戦隊附から教官として明野教導飛行師団(旧明野陸軍飛行学校)附に異動。大戦最末期の日本本土防空戦において、明野教導飛行師団附の空中勤務者・地上勤務者から抽出改編された精鋭飛行第111戦隊第2大隊長として、新鋭の五式戦闘機を操縦。1945年(昭和20年)7月16日の迎撃戦では、十倍近くの敵に対して、伊勢湾上空でP-51D(総合性能がB/Cよりも向上した型・陸軍航空軍第506戦闘機群所属のジョン・ベンボウ(John Wesley Long Benbow)大尉機【戦死】)を辛うじて撃墜したが、新鋭の戦闘機を用いながら部隊の連携が悪く、かつての精鋭明野戦闘部隊の面影も無いとの慷慨をもらしている。 航空自衛隊入間基地内の修武台記念館には檜の使用した義足が展示されている。 公的な最終撃墜数は12機。
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