罪過としての富
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 19:32 UTC 版)
「キリスト教における富」の記事における「罪過としての富」の解説
アメリカの歴史・政治学者のアラン・S・カハン (Alan S. Kahan) によると、キリスト教には富裕な者を「ことのほか罪深い」とみなす筋道がある。カハンの論ずるところでは、キリスト教のこの筋道において、審判の日とは「社会の秩序がひっくり返り、そして……貧しい者がついには真に祝福された者となるであろう」時とみなされている。 トマス・アクィナスは次のように述べた。「貪欲は、他の大罪と同じく、大罪である。俗世の束の間のもののために久遠のことどもを難ずるものなれば。」 デイヴィッド・ミラーの示唆するところによると、この見地は3世紀のマニ教徒の考え方に類似している。マニ教徒は精神的世界を善とし物質的世界を悪とし、2つは互いに相容れない対立のうちにあるとしたのであった。このようにキリスト教のこの筋道は、イエスに従うために、物質的かつ世俗的な快楽を捨てるよう信徒に訓戒する。例としてミラーは、イエスが使徒たちに命じた「旅に何も持っていってはいけない」(マルコによる福音書 6:8-9)ということばを挙げている。 カトリック労働者運動(英語版)は自発的な清貧を説いた。新しい修道院生活運動 (英: New Monasticism) は、個人的な富を拒否することを選び、禁欲的な生活に従うことがある。これは「富と贅沢、そしてけばけばしい権力を持つ教会勢力」に対する抗議の一環でもある。
※この「罪過としての富」の解説は、「キリスト教における富」の解説の一部です。
「罪過としての富」を含む「キリスト教における富」の記事については、「キリスト教における富」の概要を参照ください。
- 罪過としての富のページへのリンク