継体天皇の出自と息長氏の系譜とは? わかりやすく解説

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継体天皇の出自と息長氏の系譜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 07:09 UTC 版)

式内楯原神社」の記事における「継体天皇の出自と息長氏の系譜」の解説

上記社記における「大々命」は、応神記に見え応神天皇皇子若野毛二俣王の子意富富杼王彷彿とさせる古事記割注によれば意富富杼王は「三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君之祖也」とあり、また「息長田別王」「長日子」に関しては、景行記に倭健命の子として息長田別王がおり、息長田別王の子杙俣長日子王とされている。また、応神天皇杙俣長日子王の娘・息長若中比女を娶って生んだのが若野毛二俣王であり、若野毛二俣王が母の妹・弟比女若中比女を娶って生んだのが意富富杼王である。 社記によると、継体天皇近江息長大々の子彦主人王大々息長沙彌王の娘真若郎女を娶って儲けた子であり、大々郷の百々石城宮で生まれたため「大々命」と称し雄略天皇元年に母の真若郎女とともに息長彦主人王のもとに送られたが、ここで実母亡くなったため義母の「福井の振女」に従って越前赴いたという。 このように社記記紀所伝、特に古事記付会して造作された形跡濃厚である。しかし楯原神社の名は、『住吉大社神代記』における住吉神の子神の条に、「件住道神達八前」を注して天平元年十一月七日依二託宣一移徒坐二河内国多治比郡原里一」とあることから住吉神社密接な関係があり、神功皇后息長足比売命)の出自とされる息長氏や、継体天皇生誕の謎を類推させる伝承を持つことは重要である。また、住吉大社境内末社社(武甕槌命)と鉾社(経津主命)があることからこれらとの関係も類推しうる。ただし、『住吉大社神代記』の記事からすれば原里祀られるのは住道神でなければならないが、住道神との関係も不明である。

※この「継体天皇の出自と息長氏の系譜」の解説は、「式内楯原神社」の解説の一部です。
「継体天皇の出自と息長氏の系譜」を含む「式内楯原神社」の記事については、「式内楯原神社」の概要を参照ください。

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