細川晴元・三好長慶の巻き返し
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「舎利寺の戦い」の記事における「細川晴元・三好長慶の巻き返し」の解説
ここまで連敗続きの晴元・三好方であったが、11月13日に細川晴元が神尾山城から摂津国西部の神呪寺城を経て長慶の越水城(兵庫県西宮市)へ移動し、安宅冬康・三好実休・十河一存の援軍の軍船500船、兵2万も集結したことから、状況は有利に変化してきた。 長慶軍は、翌天文16年(1547年)2月20日に原田城(大阪府豊中市)、3月22日に三宅城を落とし、6月25日には芥川山城と池田城を無血開城させ、摂津国内における勢力を巻き返していった。この間、3月29日には将軍足利義晴が京都郊外北東の勝軍地蔵山城に入って氏綱・遊佐連合軍を支援したが大勢には影響はなく、4月に近江守護六角定頼からも援軍を得た晴元・三好方が有利に立っていた。7月に三好軍は丹波から畑(京都市右京区梅ケ畑高雄町周辺)に入って一帯を焼き払い、12日に2万の軍勢で相国寺に布陣した。将軍義晴は19日に勝軍地蔵山城に自ら火を放ち、近江坂本へ逃亡し、晴元方が一年ぶりに京都を奪還した。
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